ボリシェヴィキへの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 04:43 UTC 版)
「1907年チフリス銀行強盗事件」の記事における「ボリシェヴィキへの影響」の解説
カモを別にすれば、強盗の関係者で裁判にかけられた者はおらず、当初は事件の背後に誰がいたのかが不明であったが、その後カモやリトヴィノフたちが逮捕され、ボリシェビキの関与が明らかになった。メンシェビキは裏切られたという思いから怒りに燃えた。この強盗事件が起こったことで、ボリシェビキ・ツェントルは党の中央委員会と独立に動いており、党大会で決議された禁止事項に違反していることが明らかになった。メンシェビキの指導者であったプレハーノフはボリシェビキとの決別を呼びかけている。彼の同志であるマルトフも、ボリシェビキ・ツェントルは一派閥による秘密の中央委員会と犯罪集団の中間にある何かだと語っている。党チフリス委員会は強盗を理由にスターリンたちを除名している。レーニンの行動についても党が調査を行うはずであったが、ボリシェビキによって妨害された。 強盗事件の首謀が発覚したことで、グルジアでのボリシェビキの人気はさらに低下し、チフリスではほとんど指導的な影響力がなくなった。スターリンの妻が1907年11月に亡くなると、スターリンはチフリスにはほとんど帰らなくなった。ミハイル・ツハカヤやフィリップ・マハラジェのようなグルジアで指導的な立場にいたボリシェビキは、1907年以降グルジアを離れるものがほとんどであった。有名なチフリスのボリシェビキであったステパン・シャウミャンもバクーに拠点を移している。チフリスでのボリシェビキの人気は地に落ち、1911年にはこの町に残っているボリシェビキはわずかに100人程度であった。 また事件の影響で、ヨーロッパ中の社会民主主義者たちからボリシェビキ・ツェントルは嫌われた。レーニンはこの事件に関する議論に自分の名前が出ないようにしたことから、おそらくそれが原因の1つとなってボグダーノフやクラーシンとの関係に亀裂が入った。スターリンもカモの犯罪組織からは距離を置き、彼が果たした役割が公になることはなかった。
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