ボリシェヴィキとの戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 10:04 UTC 版)
「チェコ軍団」の記事における「ボリシェヴィキとの戦闘」の解説
蜂起当初、チェコ軍団は、西方のボリシェヴィキに対して戦おうとはせず、経路上の都市を占領した(5月26日チェリャビンスク、27日マリインスク、28日ニジネウジンスク、29日カンスク、ペンザ、スイズラニ、31日ペトロパヴロフスク、トムスク、6月2日クルガン)。 欧州への移動のため、ウラジオストクに集結していたチェコ軍団主力は、ペンザ、チェリャビンスクのグループを見殺しにはできず、各々合流のために移動し始めた。6月7日、シベリア・グループはオムスクを占領し、ガイダ部隊と合流した。ペンザ・グループは、サマラとウファ(7月5日)を経由してチェリャビンスクに向かった。 8月初め、赤軍東部戦線司令官イオアキム・ヴァツェチスは、3倍もの数的優勢(5個軍)をもってチェコ軍団を攻撃したが、戦果を上げられなかった。8月6日、ステパノフ大尉指揮下の第1チェコスロバキア連隊は、東部戦線本部所在地であるカザンを占領した。この際、同市にあった金塊が鹵獲され、全露暫定政府に手渡された。 9月1日、シベリア・グループとウラジオストク・グループが接触を確立した。
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