ドンのアタマン
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「アレクセイ・カレージン」の記事における「ドンのアタマン」の解説
二月革命には、カレージンは否定的な態度を取った。A・A・ブルシーロフは、カレージンは「心を失い、時代の精神を理解していない」と分析している。カレージンは臨時政府の動員解除命令の遂行を拒否して軍司令官を解任され、新たな地位は与えられなかった。1917年春、故郷のドン地方へ戻り、5月末にノヴォチェルカースクにてドン軍総会に参加した。コサック共同体の説得に折れて、軍のアタマンへの選出に合意した。 1917年6月18日には、ドン・コサック軍の総会にてドン軍のアタマンに選出された。コサック社会では元来アタマンは選任性であったが、1709年にピョートル1世にそれを禁止されて以来、カレージンはドン軍最初の選出アタマンとなった。新しいドンのアタマンは、自身の状況を自覚して次のように言及した。「自分は純粋な軍人の名声とともにドンへ戻ってきたが、恐らくは呪詛とともに去ることになるだろう。」 1917年8月14日、モスクワ国家会議での演説において、戦争を勝利のうちに終わらせるためには軍を政治の外におくべきであるということが要求され、軍部隊での会合や集会が禁止され、全ソヴィエトや連隊以上の委員会は廃止、一方で残る権限は運営上の問題に限定し、その義務である決定手段によって、前線および後方において規律を提起することを宣言する兵士の権利の宣言が加えられた。カレージンは、8月のコルニーロフの示威行動を支持した。1917年9月1日、軍事大臣A・I・ヴェルホーフスキイはカレージンの逮捕を命令したが、軍政府はこれを拒否した。9月4日には、軍政府のカレージンに対する「保証」を条件に、A・F・ケーレンスキイ首相は逮捕命令を撤回した。
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