ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 08:44 UTC 版)

ベネディクトゥス15世
第258代ローマ教皇
教皇就任 1914年9月3日
教皇離任 1922年1月22日
先代 ピウス10世
次代 ピウス11世
個人情報
出生 (1854-11-21) 1854年11月21日
サルデーニャ王国
ジェノヴァ
死去 (1922-01-22) 1922年1月22日(67歳没)
イタリア王国
ローマ
教皇宮殿
署名
紋章
その他のベネディクトゥス
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ベネディクトゥス15世ラテン語:Benedictus XV, ベネディクト15世; 1854年11月21日 - 1922年1月22日)は、ローマ教皇(在位:1914年9月3日 - 1922年1月22日)、カトリック教会司教。本名、ジャコモ・デッラ・キエーザGiacomo Della Chiesa)。第一次世界大戦という未曽有の惨劇を乗り越え、世俗国家の仲介者としての新しいカトリック教会のあり方を模索した。

生涯

1854年11月21日、ジェノヴァの貴族の家に生まれたキエーザは、バチカンの外交官としての道を歩み、1875年法学の博士号を取得した。彼は当時の大物枢機卿だったマリアノ・ランポッラに抜擢されてローマ教皇庁でのポストを得、教皇庁の国務省長官にまでなった。1907年ボローニャ大司教になり、1914年に枢機卿にあげられた。第一次世界大戦が勃発してすぐにピウス10世が亡くなると、キエーザは教皇に選ばれ、ベネディクトゥス15世を名乗った。

ベネディクトゥス15世は教皇としてバチカンの不偏中立を宣言し、平和実現のため、仲介者となろうとさまざまな外交努力を行った。しかし、19世紀以降の教会と国家の断絶が尾を引いていたため、無視され続けた。戦後になると、世俗国家の仲介者としてのバチカンを目指した彼の継続的な努力がようやく実り始めたが、その成果をみることなく1922年冬に世を去った。その死から4ヵ月後、エストニアとのコンコルダートが締結された。

ベネディクトゥス15世はまた、正教会との対話の再開を意図したことでも知られる。

在位中にジャンヌ・ダルクリジューのテレーズを含む4人を列聖し、ルイーズ・ド・マリヤックなど計36人を列福した。

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