教皇庁の外交官とは? わかりやすく解説

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教皇庁の外交官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 03:26 UTC 版)

ピウス12世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇庁の外交官」の解説

パチェッリは1899年4月司祭叙階され、ピエトロ・ガスパッリ枢機卿の下で働いた後、ヴァイマル共和政下ドイツバイエルン州中央政府対す教皇使節務めた1917年ピウス11世によって枢機卿あげられると、すぐ枢機卿国務長官英語版)の地位就いた外交分野活躍しプロイセンオーストリアドイツ諸邦との政教条約締結大きな貢献をし、ヨーロッパアメリカ合衆国頻繁に訪問した。また第一次世界大戦終戦時には、ベネディクトゥス15世意を受けて平和工作行っている。 その中で1933年7月20日にパチェッリの主導教皇庁アドルフ・ヒトラー率いナチス党政権下のドイツ結んだライヒスコンコルダートは、ナチス党政権下のドイツお墨付き与えたものとして後に大きな批判を招くことになる。ただし、条約の下交渉自体大半共和制時代行われており、この条約は現在でも有効とされている。 1920年から1930年代にかけて教皇庁多く国々政教条約結んだのは、19世紀以降断絶していた国家教会の関係の正常化図り各国カトリック信徒保護しカトリック学校施設政府迫害から守るためだったとされる。しかしナチスは、政教条約無視してカトリックへの圧迫続けピウス11世回勅ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』においてナチス体制批判することとなった。パチェッリはミヒャエル・フォン・ファウルハーバー(ドイツ語版枢機卿草案作成依頼しその後修正行っている。

※この「教皇庁の外交官」の解説は、「ピウス12世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「教皇庁の外交官」を含む「ピウス12世 (ローマ教皇)」の記事については、「ピウス12世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。

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