教皇庁の外交官
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「ピウス12世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇庁の外交官」の解説
パチェッリは1899年4月に司祭叙階され、ピエトロ・ガスパッリ枢機卿の下で働いた後、ヴァイマル共和政下ドイツのバイエルン州や中央政府に対する教皇使節を務めた。1917年にピウス11世によって枢機卿にあげられると、すぐ枢機卿国務長官(英語版)の地位に就いた。外交分野で活躍し、プロイセンやオーストリア、ドイツ諸邦との政教条約締結に大きな貢献をし、ヨーロッパやアメリカ合衆国を頻繁に訪問した。また第一次世界大戦の終戦時には、ベネディクトゥス15世の意を受けて平和工作を行っている。 その中で、1933年7月20日にパチェッリの主導で教皇庁がアドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツと結んだライヒスコンコルダートは、ナチス党政権下のドイツにお墨付きを与えたものとして後に大きな批判を招くことになる。ただし、条約の下交渉自体は大半が共和制時代に行われており、この条約は現在でも有効とされている。 1920年から1930年代にかけて教皇庁が多くの国々と政教条約を結んだのは、19世紀以降断絶していた国家と教会の関係の正常化を図り、各国のカトリック信徒を保護し、カトリック学校や施設を政府の迫害から守るためだったとされる。しかしナチスは、政教条約を無視してカトリックへの圧迫を続け、ピウス11世が回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』においてナチス体制を批判することとなった。パチェッリはミヒャエル・フォン・ファウルハーバー(ドイツ語版)枢機卿に草案作成を依頼し、その後修正を行っている。
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