ブロワードの「エバーグレーズの帝国」
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「エバーグレーズの排水と開発」の記事における「ブロワードの「エバーグレーズの帝国」」の解説
400万エーカー (16,000 km2) の土地をディストンに売り、土地の価格が急上昇したにも拘わらず、20世紀への変わり目までに内国改良基金は管理の誤りのために破産状態だった。フロリダ州と鉄道所有者との間に、エバーグレーズで開墾された土地を売る権利は誰にあるかについて法廷闘争が続いた。1904年の州知事選挙で、最強の候補者だったナポレオン・ボナパルト・ブロワードがエバーグレーズの排水を主たる公約にした。南フロリダの将来を「エバーグレーズの帝国」と言い、その可能性をオランダやエジプトのものに擬えた。有権者に対して「海面より上にある一体の土地の排水を行うことが技術的に単純なことながら、彼らの力を超えていたと告白するのは、フロリダ州の知性と活力に対する実際の注釈となるだろう」と書いていた。ブロワードが当選してから間もなく、「不愉快な悪疫に支配された湿地から排水する」という約束を実行し、フロリダ州議会には委員会を設立して氾濫する土地の開墾を監督するよう指示した。その委員会は干拓事業で影響を受けることになる各郡に、1エーカー当たり5セントで課税することで始め、1907年にはエバーグレーズ排水地区を結成した。 1906年、ブロワードは、アメリカ合衆国農務省の干拓調査局からフロリダ州へ出向していた、技師のジェイムズ・O・ライトに排水のための計画を策定するよう求めた。1908年までに浚渫船2隻が建造されたが、僅か6マイル (9.7 km) の運河を開いただけだった。このプロジェクトは直ぐに金が無くなったので、ブロワードは不動産開発業者のリチャード・J・ボールズにエバーグレーズの土地50万エーカー (2,000 km2) を100万ドルで売却した。その後に技師の報告書が提出された。ライトの報告書の要約は内国改良基金に渡され、1エーカーあたり1ドルの費用で、185万エーカー (7,500 km2) の土地を排水するのに8本の運河があれば充分であるとしていた。その要約書が土地開発業者に公開され、彼らはそれを広告に使った。ライトと農務省はその報告書をできるだけ早く公刊するよう土地開発業者から圧力を掛けられた。ライトの監督者が報告書にある誤りを指摘し、排水に関する異常な熱狂も指摘したので、その公刊は1910年まで遅れた。この報告書の非公式版が出回り、あるものは不動産業関係者によって修正されていた。アメリカ合衆国上院議員ダンカン・U・フレッチャーが「アメリカ合衆国上院文書89」と呼ばれた急ごしらえの版を作成させ、以前の修正されない文章も含んでいたので、投機の嵐を生んだ。 ライトの当初の報告書では、排水が難しいものではないと結論付けていた。運河を造ることはオキーチョビー湖の周りに堤を造るよりも費用対効果の良いものになるとしていた。排水後の土壌は肥沃なものになり、気候が負の影響をあたえることもなく、巨大な湖は乾季に農地の灌漑用に使えるとなっていた。ライトは、気象データの記録が1890年代に始まっていたので、15年分の気象データに基づいてその結論を出していた。その計算はジュピターとキシミーの町に集中していた。気象データがエバーグレーズの中にある場所のものが無かったので、報告書には入っていなかった。さらに雨量が最も多かった年については、ライトが変則的なものと仮定し、費用の面で運河の耐水量として計算して建設すべきではないとしていた。運河の能力についてライトが計算したものは、55%まで落とされていた。しかし、その最も基本的な誤りは、7月と8月の降水量に関する欠陥のあるデータに基づいて、最大雨量を1日4インチ (10 cm) として運河を設計したことであり、その頃に使うことのできたデータでは、24時間雨量で10インチ (25 cm) ないし12インチ (20 cm) の土砂降りがあることが分かっていた。 この報告書の結論について疑いを表明する者もいたが、特に「マイアミ・ニューズ・レコード」(「マイアミ・ヘラルド」の前身)の編集者フランク・ストーンマンがいたが、この報告書はアメリカ合衆国政府の1部門から出された完璧なものともてはやされた。1912年、フロリダ州はライトを排水監督者に任命し、不動産業はこの技術レベルが中程度の技師を、アメリカ合衆国干拓局に勤める湿地の排水について世界の最前線にある権威者だと精力的に宣伝した。しかし、アメリカ合衆国下院は、報酬がライトに払われたにも拘わらず、報告書が公式には出版されていなかったので、ライトのことを調査した。ライトの同僚がライトの結論に同意せず、報告書の出版を承認すること拒否したのが明らかにされたときに、ライトは辞任した。公聴会で証言したある者は「私はライト氏を絶対的にかつ完全に、いかなる技術的な作業にも無能であるとみなす」と言っていた。 ブロワード知事は1908年にアメリカ合衆国上院議員選挙に出馬したが、落選した。ブロワードとその前任者であるウィリアム・ジェニングスは、リチャード・ボールズの金で州を回り、排水を促進することになった。ブロワードは1910年にアメリカ合衆国上院議員に選ばれたが、就任前に死んだ。ブロワードはその指導力と進歩的な思いつき故に、フロリダ州全体で称賛された。急速に成長していたフォートローダーデールがその属する郡にブロワード郡と名付けて彼を顕彰した(当初はエバーグレーズ郡と名付ける計画だった)。ブロワードの死後1か月経って、エバーグレーズの土地は1エーカー15ドルで販売された。一方、ヘンリー・フラグラーは、鉄道沿線の町の人口が増えるごとに駅の建設を続けていた。パナマ運河建設のニュースを聞いたフラグラーは、その鉄道を最寄りの水深が深い港まで繋ぐことにした。ビスケイン湾は浅すぎたので、フロリダ本土の先端を通す路線を建設する可能性について、職人を派遣して探らせた。その職人は、エバーグレーズを通して鉄道を建設するための十分な土地がないと報告したので、フラグラーはその計画を変更して、1912年にキーウェストまで鉄道を伸ばした。
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