パイオニアによる開拓
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「オレゴン州の歴史」の記事における「パイオニアによる開拓」の解説
ドイツ出身のアメリカ人実業家ジョン・ジェイコブ・アスターが出資した1810年から1812年のアスター遠征隊は陸と海の両方から後のアストリアの地に毛皮交易業者を連れてきた。アストリア砦はこの地域最初の白人による恒久的開拓地となった。この砦はほんの短期間アメリカの支配下にあっただけだが、アメリカ合衆国が後にこの地域を領有権主張する要素にもなった。東部に戻った遠征隊はロッキー山脈を抜けるサウス・パスを発見し、これがオレゴン・トレイルの重要な要素となった。 オレゴン・カントリーのアストリア砦や太平洋毛皮会社の他の財産全ては、1812年に始まった米英戦争の間にイギリスに占領される危険があり、1813年10月にモントリオールに本拠を置くノースウェスト会社に売却された。ノースウェスト会社は既に太平洋岸北西部に進出しており、1813年の太平洋毛皮会社獲得から1821年にハドソン湾会社に吸収されるまで、この地域を競争者のいないままに支配した。この期間、ノースウェスト会社はアストリアの枠組みを実行に移し、海からコロンビア川に物資を送り、毛皮は直接中国に輸出した。ハドソン湾会社はこの仕組みを拡張し、1820年代から1830年代にバンクーバー砦(現在のポートランドとはコロンビア川の対岸に地区主任ジョン・マクローリンによって1825年に建設)にあったコロンビア地区本部から太平洋岸北西部を支配した。毛皮が枯渇し毛皮の価格が下落したことでこの会社は1840年代初期に弱体化したが、1846年のオレゴン条約まで重要な存在であった。 1830年代、アメリカ人の数隊がオレゴンまで旅して、オレゴン・トレイルが確立された。これら移民の多くは先住民をキリスト教徒に改宗させようという宣教師達だった。初めにジェイソン・リーが1833年のナサニエル・ジャービス・ワイエスの隊に加わって旅し、ウィラメットバレーにオレゴン伝道所を開設した。マーカス・ホィットマンとヘンリー・スポルディングは1847年に到着し、カスケード山脈の東にホイットマン伝道所を造った。1839年、ピオリア隊がイリノイ州からオレゴンに向けて出発した。 1841年、富裕な罠猟師の親分で起業家のユーイング・ヤングが遺言を遺さずに死に、当時はその資産を検認する仕組みが無かった。ヤングの葬儀後の集会で検認委員会が提案された。ジェイソン・リーのメソジスト宣教所からアイラ・バブコック博士が最高判事に選ばれた。バブコックは1842年にシャンプーイ(リーの伝道所とオレゴンシティの中間)で2度集会を開催し、当時問題になっていた狼や他の動物のことを討議した。これらの集会が先駆けとなって1843年の全住民集会に繋がり、デイビッド・ヒル、アランソン・ビーアズおよびジョセフ・ゲイルを頭目とする暫定政府が作られた。この政府はアメリカ併合前のオレゴン・カントリーでは初めて活動する公共的政府となった。 アメリカ合衆国がイギリスと共同でオレゴン・カントリーを開拓することに合意した後、1842年から1843年を初めとして、オレゴン・トレイルを通って多くの新しい開拓者がこの地域に入ってきた。あるときにはアメリカとイギリスがこの75年間で3度目の戦争を始めそうな気配もあった(オレゴン境界紛争を参照)が、その境界は1846年のオレゴン条約によって平和的に解決された。アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの境界は北緯49度線に設定された。1848年にはオレゴン準州が公式に設立された。 1840年代の初めにウィラメットバレーまでの容易な陸路を見つける試みが多く行われた。バーロー道路、ミーク切り通し、およびアップルゲイト・トレイルはそれぞれ、オレゴンの北部、中部および南部でカスケード山脈を横切る試みの成果である。バーロー道路は1846年に建設された後でオレゴン・トレイルの最後の区間になり、サンティアム荷馬車道路が山脈の中央部を通ることになり、ミークが失敗した所で成功した。 1850年の寄贈土地所有権法のためと先住民の居留地への強制移住が結びついて開拓者が増加した。オレゴンは1859年2月14日に合衆国の州として認められた。 南北戦争の勃発でアメリカ軍の正規兵が撤退し東部へ送られた。志願騎兵がカリフォルニアで募集され、北のオレゴンに送られ、治安維持と人民の保護に宛てられた。第1オレゴン騎兵連隊は1865年6月まで任務に就いた。 1880年代、鉄道が増設されたことで州内の木材や小麦の取引を助長し、都市が急速に成長した。このことはオレゴン州と合衆国東部とを大陸横断鉄道を介して結び付きを強め、物と人の動きを早くすることを可能にした。東部との接続の後にオレゴンへの移民の数が増えた。また幾つかの閘門や運河の建設で川の航行が容易になり、輸送方法が改善された。
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