アスター遠征隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 14:26 UTC 版)
「オレゴン・トレイル」の記事における「アスター遠征隊」の解説
現在のアメリカ合衆国を横切る最初の陸路は1804年から1805年にかけて行われたルイス・クラーク探検隊のとった経路だった。探検隊は西海岸に至る実際的な経路を発見したと信じた。しかし、ロロ・パスと呼ばれるロッキー山脈を抜ける経路は幌馬車が通るには難しすぎるということが分かってきた。1810年、ジョン・ジェイコブ・アスターがアスター遠征隊(英語版)(アストリアンとも)を起こし、アストリア砦(英語版)のあるコロンビア川河口に毛皮の交易所を作るために陸路の物資供給経路を見つけようとした。アスターの同行者の大半やそのスタッフ全員は元ノースウエスト会社(ノーウエスターとしても知られている)の雇員であった。 この地を領土としていたインディアン部族のブラックフット族の攻撃を恐れた遠征隊はルイス・クラーク遠征隊の経路よりも南の峠を選び、現在のサウスダコタ州からワイオミング州に入りスネーク川を下ってコロンビア川に入った。 遠征隊のメンバーでノーウエスターの共同経営者でもあったロバート・スチュアート達は、帰路東方に向かった。遠征隊は途次、峠道サウス・パス(英語版)を見つけた。これは広くて高度の低い峠で、ワイオミングでロッキー山脈を抜けるものである。遠征隊はプラット川を通って旅を続けた。この経路は幌馬車でも通れることがわかった。スチュアートの日記にはその細部まで行き届いた描写がある。 遠征隊が帰路につく前、アメリカ毛皮会社のスタッフがイギリスのノースウエスト会社のスタッフに砦を売った。ノースウエスト会社のスタッフは米英戦争の時にスネーク川経由でその交易所を運営した。アストリア砦は米英戦争の終戦でアメリカ合衆国に返還された。しかし、イギリスのハドソン湾会社がこの地域の毛皮交易を管理するためにやって来て、特に1821年のノースウエスト会社との合併後は管理を強めた。
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