毛皮貿易からの資産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:57 UTC 版)
「ジョン・ジェイコブ・アスター」の記事における「毛皮貿易からの資産」の解説
アスターは、1794年にイギリスとアメリカ合衆国の間で結ばれたジェイ条約によって、五大湖とカナダの新しい市場が開けた利点を生かした。1800年までに25万ドル近くを蓄え、毛皮貿易では指導的存在の一人となった。1800年、アメリカでは初めての中国貿易船エンプレス・オヴ・チャイナの例に続いて、中国の広東で毛皮、茶および白檀材を貿易し、それから大きな利益を得た。しかし、1807年の通商禁止法でその輸出入事業が妨害された。アスターはトーマス・ジェファーソン大統領の許可を得て、1808年4月6日にアメリカ毛皮会社を設立した。後にコロンビア川や五大湖地域での毛皮貿易を統括するために、子会社である太平洋毛皮会社と南西毛皮会社(カナダ人との共同経営)を作った。 コロンビア川の交易基地、アスター砦(1811年4月設立)は太平洋岸ではアメリカ初の地域社会となった。1810年から1812年に掛けての山岳地を行くアスター遠征隊に出資し、これが交易基地となる場所に到着した。遠征隊の隊員はサウス・パスを発見し、その後ここを通って数多い開拓者達がロッキー山脈を抜け、オレゴン・トレイル、カリフォルニア・トレイルおよびモルモン・トレイルに進んだ。 アスターの毛皮貿易事業(en:American Fur Company、en:Pacific Fur Company、en:Southwest Fur Company)は、米英戦争のときにイギリス軍がアスターの交易基地を占領したことで妨害された。1817年にアメリカ合衆国議会が保護貿易の法を通し、合衆国領土から外国人貿易業者を締め出したことで、その事業も立ち直った。アスター率いるアメリカ毛皮会社は五大湖地域周辺での交易を支配するようになった。1822年、アスターは再編成したアメリカ毛皮会社の本社としてヒューロン湖のマキナック(マキノー)島に「アスター・ハウス」を建て、この島を毛皮貿易の中心地とした。これについてはワシントン・アーヴィングの旅行記『アストリア』(Astoria)には文書や日記に基づく長い記述がある。 1804年、アスターはアーロン・バーからマンハッタンの資産を99年間借用する、という条件で購入した。当時、バーはトーマス・ジェファーソン政権での副大統領であり、その購入代金62,500ドルを是が非でも必要としていた。借地は1866年まで続けられた。アスターはその土地を250近くに区切り、これらを又貸しした。その条件は店子が21年間その土地で何をやってもよく、その期限が過ぎれば借用を更新するか、アスターが引き取るというものだった。
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