毛皮交易の曲がり角と紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:58 UTC 版)
「北西会社」の記事における「毛皮交易の曲がり角と紛争」の解説
1806年、ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖令でバルト海とイギリスとの間の経済封鎖が行われた。さらにイギリスとアメリカとの対立も激化し、1809年には非国交法(Non-Intercourse Act)がアメリカで成立し米英間の交易も停止した。これによりカナダの毛皮交易の環境が大きく変化した。当時、イギリスは木材のほとんどをバルト海沿岸諸国、およびアメリカ東海岸のニューハンプシャー州とマサチューセッツ州に頼っていた。イギリスはカナダ植民地に木材を求め、特に船のマストに使うマツ材を輸入した。こうして、カナダの最大の輸出品が毛皮から木材・木製品へと劇的に変化してしまった。しかしなお重量の割に金額の大きな毛皮は利益の大きな商品であり、カナダ商人が英国に送金する際にも不足がちの貨幣の代わりに毛皮が使われたほどだった。 1810年には毛皮動物(特にビーバー)の乱獲が毛皮産業に打撃を与えた。スーセントマリーの交易拠点も米英戦争でのアメリカ軍の攻撃で破壊され、経営危機の北西会社にはさらに深刻な打撃となった。こうした危機により北西会社の競争はさらに激しくなった。 ハドソン湾会社の株主だった第5代セルカーク伯爵トーマス・ダグラスは、他の株主たちを説得してハドソン湾会社の領地(ルパート・ランド)のうち現在のマニトバ州などに当たるレッド川流域の30万平方kmを譲与させ農業植民地を作ろうとしたが、これも北西会社の終末につながった。北西会社や、北西会社で働いていたメティ(スコットランド系やフランス系白人男性とオジブワ、クリーなど先住民女性との間の子孫たち)らはレッドリバー植民地の農地開発に反対し、さらに食糧難に陥ったレッドリバー植民地が発したペミカン輸出禁止宣言で北西会社もメティたちも食糧不足になった。1816年にはハドソン湾会社と北西会社・メティ連合軍との間でセブン・オークスの戦いが起こり、北西会社側は1人の犠牲を出したもののハドソン湾会社側に22人の死者を出す打撃を与えた。これを受けてセルカーク伯爵は北西会社社長ウィリアム・マクギリヴレイや北西会社の所有者ら数人を逮捕しフォート・ウィリアムスの前哨を占領し、裁判でセブン・オークスでの犠牲者に対する責任を追及した。
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