毛皮交易の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 15:20 UTC 版)
「北アメリカの毛皮交易」の記事における「毛皮交易の始まり」の解説
「カナダの歴史」および「カナダのカヌーのルート」も参照 フランス人の探検家ジャック・カルティエは、1530年代から1540年代にかけて、3度にわたってセントローレンス湾を航海し、初期のヨーロッパ移民とインディアンの交易の主導権を握った。ヨーロッパ移民とインディアンとは、北アメリカの地で16世紀、そしてそれ以後の探検で互いに交流することになった。カルティエは、セントローレンス川やセントローレンス湾周辺のインディアンたちとの、限定的な毛皮交易を目指した。しかしカルティエは交易を、衣類の縁飾りや、装飾品としての毛皮のみに絞り込んでいた。カルティエは、後に毛皮が北方での交易の起爆剤となること、ビーバーの原皮がヨーロッパで大流行することを見通せていなかった。 毛皮は、1580年代まではタラ漁業の副産物であった。16世紀、大西洋におけるタラ漁業では、タラを船内で塩漬けにして持ち帰るグリーン漁業(ウェット漁業)という方法があった。他方ドライ漁業という方法もあり、これはタラを浜辺のフィッシングステージとフレーク(棚)で乾燥させるもので、操業時期は夏の間のみだったが、塩が節約でき、乾燥したタラは塩漬けタラほどのスペースを取らなかった。天日塩を得にくいイングランドの漁船には、このドライ漁業はまたとない方法であった。イングランドのほうが先にニューファンドランド島に漁業基地を築いたが、フランスもまたこの地に多くの漁船を派遣した。毛皮は、タラと並んでヨーロッパ人の関心を惹いた。 1590年代に入ると、毛皮交易はそれ自体が植民地熱をあおる主要産物となった。1603年にフランスによりヌーベルフランスが作られ、毛皮交易は百人会社やアビタン会社の独占下となり、ヒューロン族との取引のもと、ビーバー毛皮をフランスに輸出した。漁師たちは、インディアンがなめして縫い合わせたビーバーの衣服を金属製品と交換して、長期にわたる寒冷な大西洋横断の航海にそれをまとった。この「キャストル・グラ」(フランス語、英語ではビーバーコート)が16世紀後半にヨーロッパの帽子職人に珍重され、このなめし皮がフェルトに加工された 。このビーバー毛皮は、すぐに世界を席巻する輸出商品となった。
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