バッド社との技術提携まで
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「東急7000系電車 (初代)」の記事における「バッド社との技術提携まで」の解説
本系列の製造にあたった東急車輛製造は、国有財産の設備や土地などを借り受け、1948年8月23日に株式会社東急横浜製作所として設立された、戦後発足の車両製造メーカーであり、戦後の混乱を乗り越えた後も先行する同業他社に追いつく努力が必要だった。1952年7月11日に同社社長に就任した吉次利二は、鉄道部門の業績向上のために、同業他社を上回る技術力でシェアを獲得することと、海外メーカーの技術の取り入れ・自社の技術や車両の輸出をセットで行うことを経営方針の1つとして掲げ、その一環として、吉次を団長とした業界関係者が北米・南米の市場開拓や視察を目的として1956年に海外へ渡り、南米では日本製車両の長所を伝えて回った。訪問先の鉄道事業者ではアメリカ製の車両が導入されており、ブラジルではアメリカのバッド社が製造したオールステンレス車両に乗車する機会があった。吉次は後に東急車輌創立20周年記念の座談会で以下のように述べている。 南米はどこへ行っても「俺たちは米国からこんな立派な車両を買っているんだ。お前たちも乗せてやろう」と言われ、ブラジルではバッド社製のオールステンレス車に乗った。乗ってみたら素晴らしい。PRに行きながら他国の車両に感心してほめほめ乗って歩いた。 — 『鉄道ピクトリアル』通巻696号、67頁より引用。 バッド社は1934年には世界初のステンレス製ディーゼル列車である「パイオニア・ゼファー」を世に送り出し、1959年までに累計3000両を超えるステンレス車両を製造していたほか、視察時点で7社の海外メーカーと技術提携していた。視察の帰り際、先方との交渉の末に吉次ほか一部の人間がバッド社の工場を見学し、ステンレス製車両が鋼製車両に比べ軽量化(経済性)と構造の強靱さ(安全性)の面で優れていることから、吉次はステンレス車両の将来性を確信したという。吉次は帰国後の視察報告や質疑応答の際、オールステンレス車やバッド社のことには触れておらず、これには、先の視察団には同業他社の関係者が多く参加していたことから、自社の動向を他社に察知されないようにするための判断だったのではないかという見方や、バッド社の工場を見学したのは視察団の一部だったと推定され、視察団の公式訪問の扱いではなかったから、との見方がある。 東急車輌では1955年ごろから独自にステンレス製車両の技術開発を始めていたが、吉次は先の視察から帰国した直後にはオールステンレス車両の製造を決意しており、社内でも優秀な技術者を集めて技術開発や設計業務に着手、独自設計の東急5200系を1958年に、東急6000系を1960年に製造していたが、これらはいずれもセミステンレス構造の車体であった。この構造では車体の腐食を完全に防止することはできず、実際にも6000系では登場から20年を経ないうちに腐食した裾部分の構体を取り替えている。セミステンレス構造は塗装費の節減にはつながっても、車体そのものの耐久性ならびに軽量化という観点では満足できるものではなかった。 5200系が営業運転を開始した1958年当時、東急車輛の技術陣はすでにステンレス鋼の特長を最大限に生かすにはオールステンレス車両しかないとの結論に達しており、バッド社の技術は必要欠くべからざるものだとの認識も持たれていた。この流れの中で、同年8月、東急車輌の幹部がバッド社を訪問、折衝の末技術提携の合意を得た。日本の外貨事情が良くない時代の技術提携は円貨の流出を伴うため、日本政府の認可が必要となり、認可ののち1959年12月15日に契約締結に至った。翌年には親会社である東急と本系列の試作車となる試作品納入の同意を取り付け、販売先を確保することができた。
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