タスマンシリーズ
1960年代に、オーストラリアやニュージーランドなどで開催されていた2.5Lのフォーミュラ・リブレによるレース。69~71年のJAFグランプリでは、JAFが招待したタスマン勢が富士スピードウェイで大活躍した。
タスマンシリーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/08 17:50 UTC 版)
タスマンシリーズ (Tasman Series) は、1964年から1975年にかけてオーストラリアとニュージーランドで開催されていたフォーミュラカーの選手権レースである。「タスマンカップ」「タスマンチャンピオンシップ」とも呼ばれる。名称はオーストラリアとニュージーランドに挟まれたタスマン海にちなむ。
沿革

オセアニアのイギリス連邦に属する地域では、イギリス製の中古レーシングカーを輸入してローカルレースが行われていた。ジャック・ブラバムを筆頭に、ブルース・マクラーレン、クリス・エイモン、デニス・ハルムといったドライバーはそこで頭角を現し、ヨーロッパに渡って成功を収めた。
1964年、この地域のトップフォーミュラのチャンピオンを決定する「タスマンシリーズ」が創設された。シリーズは例年1月にニュージーランド・ラウンド、2月にオーストラリア・ラウンドという順に7~8戦を転戦する短期集中方式で開催された。その中には当地のビッグイベントであるオーストラリアGPとニュージーランドGPも含まれた。
このシリーズにはヨーロッパの有名ドライバーたちも多数参戦した。開催時期の1~2月は南半球では真夏だが、北半球ではモータースポーツのオフシーズンにあたる。このため、前述の地元出身者はもちろん、ジム・クラーク、グラハム・ヒル、ジャッキー・スチュワート、ヨッヘン・リント、ペドロ・ロドリゲス、デレック・ベルといったスター選手がバカンスを兼ねて参戦した。F1チームもタスマンシリーズ用のマシンを用意し、ワークス体制で出場した。
ブルース・マクラーレンは所属するクーパーが参戦に消極的だったため、テディ・メイヤーらとプライベートチームを結成し、これが名門マクラーレンの出発点になった[1]。
1968年にロータスが投入したロータス・49Tは、F1シーズン開幕に先んじてタバコ銘柄の「ゴールド・リーフ」のスポンサーカラーをまとって登場した。ジム・クラークはこのマシンで最後の個人タイトルを獲得した後、4月のF2レースで事故死した。
1969年に日本で創設されたJAFグランプリにはタスマンシリーズ勢が招待出場し、ロータス・レプコに乗るレオ・ゲオゲーガンが優勝した。
開幕から1969年までの6年間は2.5リッターエンジンのマシンを用いていたが、1970年より5リッターエンジンを搭載するF5000規定も認められ、その後の主流マシンとなった。F1からのエントリーは減り、地元チーム・ドライバーが活躍する地域選手権という姿に戻った。
シリーズはニュージーランド側が独立する形で、1975年を最後に終了した。オーストラリアではF5000規定のまま1979年まで「ロスマンズ・インターナショナルシリーズ」が開催され、ニュージーランドでは1977年より1.6リッターエンジンのフォーミュラ・パシフィックがスタートした。
タスマンシリーズはヒストリックレーサーの支持者を中心に人気があり、今日でもリバイバルレースが行われている。
車両の特徴
シャシーの製造元にはロータス、クーパー、ブラバム、BRM、フェラーリといったF1コンストラクターが連ねた。既製のF1・F2マシンをモディファイにしたものが多く、ワークスの使用後はプライベーターに放出された。他にも、エルフィン、ミルドレン、マクレーといったローカルコンストラクターが参戦していた。
エンジンは1961年にF1で1.5リッターエンジン規定が導入されてから余剰となっていたクライマックス・FPFエンジン(2.5リッター直4)が多用された。フェラーリやBRMはF1用1.5リッターエンジンのサイズを拡大して使用した。
F1で1966年より3リッター規定が導入された直後はエンジンの準備が遅れていたため、暫定的にタスマン用のエンジンを搭載するF1マシンもあった[2]。1968年、コスワースはF1用に開発したDFVエンジンをショートストローク化したDFWエンジンを投入した。地元のレプコはブラバムとのジョイントでF1を制したのと同じく、ビュイック (GM) をベースにしたタスマン用V8エンジンを開発した。
F5000時代にはマクラーレン、サーティース、ローラ、シェブロンといったコンストラクターが量販シャシーを供給した。
搭載される5リッターエンジンはシボレーの市販型OHVV8エンジン(ストックブロック)が多用された。レプコはホールデン (GM) をベースにしたレプコ-ホールデンV8エンジンを供給した。
歴代チャンピオン
シーズン | ドライバー | チーム | マシン |
---|---|---|---|
1964年 | ![]() |
ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | クーパーT70・クライマックス |
1965年 | ![]() |
チーム・ロータス | ロータス32B・クライマックス |
1966年 | ![]() |
BRM | BRM P261 |
1967年 | ![]() |
チーム・ロータス | ロータス33・クライマックス |
1968年 | ![]() |
チーム・ロータス | ロータス・49T・フォード |
1969年 | ![]() |
Scuderia Veloce | フェラーリ246T |
1970年 | ![]() |
フェラーリ246T | |
1971年 | ![]() |
Crown Lynn | マクラーレンM10B・シボレー |
1972年 | ![]() |
Crown Lynn Grid International (NZ) Ltd |
Leda GM1・シボレー |
1973年 | ![]() |
Crown Lynn | McRae GM1・シボレー |
1974年 | ![]() |
シェブロン・レーシングチーム・VDS | シェブロンB24・シボレー |
1975年 | ![]() |
Pat Burke Racing | ローラT332・シボレー |
脚注
- ^ ダグ・ナイ 『チーム・マクラーレンの全て』 森岡成憲訳、CBS・ソニー出版、1989年、86頁。
- ^ 家村浩明 (2012年4月11日). “第6回 『"風土とF1"、欧州&豪州。そして"ノン・チャンピオンシップ"F1グランプリ』 1/3”. 特集記事 "ヴィンテージ・マガジン"をdeepに愉しむ! 〜 古いレース雑誌の読み方、教えます。. オートスポーツweb. 2012年5月23日閲覧。
外部リンク
- Tasman Revival.com
- Tasman Cup (1964-1969) - OldRacingCars.com
- Tasman Cup (F5000) races 1970-1975 - OldRacingCars.com
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タスマンシリーズ
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1970年代後半、グラナテリの車(701/3)は3.0 L (183 cu in)のコスワースDFVエンジンを2.5 L (153 cu in)のDFWに換装し、タスマンシリーズ仕様に変更された。この車はその後、1971年のタスマン・シリーズに参戦するクリス・エイモンのためにニュージーランドへ輸送された。1971年シーズンは古い2.5リッターエンジンではなく、フォーミュラ5000のルールで行われる初年度であることが意図されていたが、主催者が両クラスの出場を認めたことで、以前の規定に合った古い車のオーナー達は動揺を示した。STPチームが車の準備を助けることで、エイモンはプッシュロッドエンジンを搭載したフォーミュラ5000の車よりも、F1マシン用の真のレーシングエンジンを搭載したタスマン車がより高速であることに賭けた。しかしながら、彼は間違っていたし、新規定車のドライバーはよりエキゾチックなマシンを快適にドライブすることができた。 小さなDFWはDFVに比べてトルクが足りず、エイモンはレヴィンで行われた開幕戦では3位を守るために苦闘し、ウィグラムでは5位になった。エイモンとSTPチームは戦闘力に欠けるマーチ・701に換えてロータス・70を導入することに決め、エイモンはプケコヘで行われたニュージーランド・グランプリでロータスをドライブした。エイモンの701/3は地元ドライバーのデヴィッド・オクストンが使用することとなった。レースではオクストンにとって不運なことに、ハーフシャフトの1本が破損し、彼はリタイアすることとなった。オクストンは最終戦のテレトンガでもこのマシンをドライブし、7位となった。シリーズがオーストラリアラウンドに移動すると、701/3はフォーミュラ1仕様に戻され、スキップ・バーバーに売却され、アメリカに送り出された。
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