スト権スト問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
1945年(昭和20年)に制定された労働組合法では、公務員、公共企業体(1949年に発足)職員のスト権は認められていたが、1948年(昭和48年)、二・一ゼネストの影響でGHQによってスト権が認められなくなった。1970年代に入り公務員や公共企業体職員による公共企業体等労働組合協議会(公労協)は、スト権の奪還を闘争目標として掲げ、1971年(昭和46年)に国鉄労働組合(国労)、国鉄動力車労働組合(動労)がスト権の奪還を訴えるストライキを行い、その後毎年スト権奪還を闘争目標とするストが行われるようになった。 田中内閣時代の1974年(昭和49年)になると、労働運動のナショナルセンターである日本労働組合総評議会(総評)もスト権奪還を主要目標と定め、3月から4月にかけてスト権奪還を目指すストが行われた。結局政府と組合側との協議の結果、組合側の意見を聞きながらスト権問題の解決を図り、1975年(昭和50年)秋を目途に結論を出すとした了解事項がまとまった。田中政権は公共企業体等関係閣僚協議会と専門委員懇談会を発足させ、スト権問題についての協議を進めた。結局田中政権ではスト権問題の解決はなされず、三木政権への継続課題となった。 三木はスト権問題について、条件付きでスト権を付与する考え方を持っていた。三木の考え方の基本は、まず労働者に労働三権の一つである争議権を認めないのはまずいという原則論とともに、この問題の主管官庁である労働省の、条件付きスト権付与という意見を尊重するという二点であった。首相の三木以外でも、長谷川峻労働大臣、そして福田副総理兼経済企画庁長官も条件付きスト権付与を認める考え方であった。一方中曽根幹事長らはスト権付与に反対していた。 田中内閣時代の、スト権問題について1975年(昭和50年)秋を目途に結論を出すとの期限が迫る中、専門委員懇談会での話し合いが進められていった。そのような中、公労協は11月1日に政府側にスト権奪還を改めて強く要求し、10日には要求が受け入れられない場合には11月26日から10日間のストを決行することを決めた。田中内閣時代に選任されていた専門委員懇談会はもともとスト権付与に反対の委員が多かったが、政府と公労協との対立が激化する中、スト権付与に反対する意見が強まっていた。 三木は公労協の10日間のスト計画に対し、スト権付与問題が解決しないままで行うストは違法であり容認できず、ストを行った場合には厳正な処罰を行うとした。この点については強硬派の中曽根らとの意見の隔たりはなかった。政府側と公労協との話し合いは平行線を辿り、結局11月26日、スト権ストに突入する。スト突入当日、専門委員懇談会は条件付きスト権ストを認めない意見書を公表した。また三木内閣の閣内でもスト権付与に否定的な意見が高まってきた。更に田中派、大平派がスト権付与に反対を明確にし、当初は必ずしもスト権付与に否定的ではなかった椎名副総裁も、スト権スト突入前後にはスト権付与に対し強固な反対派となった。三木は専門委員懇談会での結論、閣内及び党内の大勢となったスト権付与反対意見、更に大規模なスト権ストが行われている最中にスト権付与を認めることは、ストに政府が屈したとの印象を持たれることも考慮し、この段階でスト権付与を認めることを断念した。 三木はこの段階での公務員、公共企業体職員へのスト権付与は断念したが、将来の付与には含みを残したいと考えた。しかし三木の意向は椎名らの反対で形にすることは出来なかった。三木は党内基盤の弱さもあって、自らの条件付きスト権付与の意向を実際の政策に反映させられなかった。結局政府から全く譲歩を得られないまま12月3日にスト権ストは中止された。不況下で公労協が行った長期ストは世論から強い批判を浴び、総評内においても民間企業の労働組合からの支持も弱かった。結局官公労は親方日の丸といったマスコミなどからの批判を浴び、更に政府当局からの大量処分、損害賠償請求を受け、大型ストを行う体力が失われることになった。
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