スト終結後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 14:34 UTC 版)
「1994年から1995年のMLBストライキ」の記事における「スト終結後」の解説
1995年シーズンは当初の4月3日開幕予定から1ヶ月近く遅い4月25日に、期限切れの旧労働協約下で開幕した。試合数も従来より18試合少ない144試合制となった。シーズンの打ち切りとワールドシリーズの中止は自分達への裏切り行為として多くのファンを失望させ、開幕後に各地の球場でファンが抗議と不満の意思を示すブーイング行為が頻発した。特に選手会会長を務めるアトランタ・ブレーブスのトム・グラビンに対する風当たりは強く、登板するたびにブレーブスファンからもブーイングを浴び、郵便受けには憎しみの手紙が殺到した。 カル・リプケンは9月6日に2131試合連続出場を果たし、1939年にルー・ゲーリッグが樹立した連続試合出場記録を56年ぶりに塗り替えた。シーズン後半はリプケンの記録見たさに客足も少しずつ戻ってきたが、全体的に見ると観客数は低調であり、1995年は平均観客数が25,260人となり、前年の31,612人から20%も減少した。1997年のインターリーグの導入と、1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサによる本塁打記録更新争いもあり、平均観客数は回復の兆しが見えてきたものの、ポストシーズンゲームのテレビ視聴率は年々低下の一途をたどっていく。 新労働協約の交渉を行っていた選手会側と経営者側は1996年10月24日に、サラリーキャップ制度の代替として球団の年俸総額に贅沢税を、選手には年俸税を課し、球団間で収益を分配することを求める譲渡案で暫定的な合意に達した。オーナー達は11月6日に投票を行って12対18で自分達の代表者が到達した合意を無効にし、セリグコミッショナー代行に選手会から更に改善を得るように指示した。ところが、暫定合意反対派の旗頭で、年俸の支払いをオーナーが制限することに常に賛成してきたと言われていたシカゴ・ホワイトソックスのジェリー・ラインズドルフオーナーが拒否投票直後にクリーブランド・インディアンスの強打者であるアルバート・ベルとスポーツ界最高年俸となる5年5500万ドルの契約を締結すると状況は変わった。この1週間後の11月26日に行われた再投票で26対4で何の変更も加えずに新労働協約が承認されると(ただし、ラインズドルフは反対票を投じた)、労働関係委員会(NLRB)のウィリアム・グールド委員長は新聞発表を行い、ストにおけるNLRBの働きを「NLRBが差し止めの救済を請求する権威を使って成功した最初の例である」と褒めちぎった。交渉で決定された協約では、1年間の試験的なインターリーグの導入が定められていたが、オーナー達は契約を承認する時になってから、次のシーズンにも延長するように主張した。12月5日に選手会側はこれを受け入れた。1997年3月14日に新労働協約が締結され、長く続いた絶望的な労使間紛争がついに終結した。セリグは「これは野球の真の再生と黄金時代の始まりとなる」と述べた。
※この「スト終結後」の解説は、「1994年から1995年のMLBストライキ」の解説の一部です。
「スト終結後」を含む「1994年から1995年のMLBストライキ」の記事については、「1994年から1995年のMLBストライキ」の概要を参照ください。
- スト終結後のページへのリンク