ストの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 06:33 UTC 版)
「1981年のMLBストライキ」の記事における「ストの経緯」の解説
1981年5月29日、選手会の理事会はフリーエージェント(FA)の未解決の問題のために1972年以来、メジャーリーグベースボール(MLB)史上2度目となるストライキの決行を全会一致で可決した。 経営者側は選手を契約で縛り付ける特権を必死に取り戻そうとして、FAによって選手を失ったチームに補償が支払われることを要求した。求めた補償の内容は獲得する選手は自由に選べるというものである。問題となったのはこの署名チームの名簿から選ばれる選手についてだった。選手会側は補償によってFAの価値が損なわれると主張した。 ストライキは6月12日に選手によって引き起こされたが、多くのマスメディアは経営者側に責任があると激しく非難した。スポーツ・イラストレイテッド誌は「Strike! The Walkout the Owners Provoked」という見出しを載せた。 経営者側は保険を掛けていたこともあって強気の姿勢を崩さず、交渉は進展しなかった。経営者側の保険が切れる寸前になると事態は変わり、7月31日にFA選手を喪失した球団に支配下選手40人のうち26人まで入れることが出来るプロテクトリストに含まれない選手を獲得する権利や、補償ドラフトの指名権を付与するシステムを導入することで双方が合意に達した。 このFA補償ドラフトはプロテクトリストから外れていた通算273勝の大ベテラン投手、トム・シーバーをシカゴ・ホワイトソックスが、同じくプロテクトリストに入っていなかった1984年1月のドラフト会議で全体1位指名を受けた新人投手、ティム・ベルチャーをオークランド・アスレチックスが獲得したことなどから問題となり、1985年には廃止になった。
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ストの経緯
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「1994年から1995年のMLBストライキ」の記事における「ストの経緯」の解説
ファンはストライキに反対(スト直前の試合中には「The strike sucks!!」等の横断幕が掲げられた)するも本格的な交渉は行われず、宣言通りに8月12日からストに突入した。9月14日にはついに、コミッショナー代行のセリグが1994年の公式戦の残り試合全てとプレイオフ(ディビジョンシリーズとリーグチャンピオンシップシリーズ)、1994年のワールドシリーズも中止する声明を発表した。 当時のアメリカ合衆国大統領だったビル・クリントンは10月14日に元労働長官のウィリアム・ユザリーを政府調停人に任命して解決に当たらせた。ユザリーは鋭く対立する労使双方に手を焼き、12月14日には協議が決裂した。23日に経営者側は交渉が行き詰まったと宣言し、一方的にサラリーキャップ制度を導入した。27日に選手会側は雇用条件に違反する一方的変更に当たるとして、再びNLRBに訴えた。 1995年1月26日に大統領のクリントンは「ベーブ・ルースの生誕100周年に当たる2月6日にストライキ続行中というのは耐えられない。その日までに解決するように」との声明を発表した。2月7日にはプロスポーツ史上初めて大統領がホワイトハウスに労使双方を呼びつけ、自ら和解の調停に乗り出す異例の事態となった。大統領の提案は人望の厚い中立の立場の人物に新契約での姿勢を示し、その人物に新労働協約の条件をどのようにするか決定させるというものだったが、経営者側がこれを拒否したために調停は失敗に終わった。翌8日に、選手会側は経営者側が最近に行ったばかりの労働協約の条件の一方的変更(年俸調停の廃止、共同謀議禁止条項の削除)が「不当労働行為」に当たるとしてNLRBに新たに訴えた。 経営者側は長引くストへの対抗措置として、MiLB所属選手や元MLB選手たちを集めてスプリングトレーニングやオープン戦の開催を強行し、代替選手による1995年シーズンの開幕を目論んだ。3月14日、選手会側は代替選手がシーズンの公式戦で使用された場合はストを中止するための交渉に一切応じないと表明した。しかし、経営者側も必ずしも足並みが揃っていたわけではなく、以前に労働組合の弁護士を務めていたボルチモア・オリオールズのオーナーであるピーター・アンジェロスは、カル・リプケンの連続試合出場記録を守るために代替選手の使用案に猛反対し、代替選手を使用しない方針を表明した。3月20日にオリオールズはシーズン前のスケジュールを全てキャンセルした。21日にボルチモア市議会はオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズで代替選手によって試合が行われた場合にMLB機構に1試合1000ドルの罰金を科す法案を成立させた。デトロイト・タイガースの監督であるスパーキー・アンダーソンは代替選手の指揮を拒否し、直後に休職に置かれた。 申し立ての準備を終えたNLRBは、3月27日に交渉の状態を2月の経営者側が労働協約の条件の一方的な変更を加える前に戻させるために、ニューヨーク連邦地方裁判所へ差し止めを申請した。31日に判事のソニア・ソトマイヨールが旧労働協約を復活させる差し止め命令を発行。双方に交渉の席に戻り、誠意を持って交渉するように命じた。4月2日に選手会側が経営者側に試合開始を申し出てストを解除すると、経営者側もそれを受諾した。
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