スター作家として
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1964年、手塚治虫の仲人により結婚。また12月に発足した日本漫画家協会に入会する。 1964年(昭和39年)7月19日より『少年キング』にて代表作となる『サイボーグ009』の連載を開始する。この頃にはすでにスター作家となっており、この時期に描かれた石ノ森のマンガ入門書『マンガ家入門』(1965年)、『続・マンガ家入門』(1966年)は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。また、『サイボーグ009』を連載していた当時、ファンレターの宛先が漫画家の住所となっていたため多数の読者が訪問していた。すがやみつるが『サイボーグ009』の連載終了直後に訪問したときは、サインを貰いにきた別の訪問者に対して、訪問者に見えないところで当時チーフアシスタントであった永井豪が絵だけではなくサインまで書き上げて渡していたという。このような対応を行わないと仕事にならないほど訪問者がきていたことが原因である。 1966年(昭和41年)、『ミュータント・サブ』『サイボーグ009』により第7回講談社児童まんが賞を受賞。1968年(昭和43年)、石森章太郎プロを設立。『ジュン』『佐武と市捕物控』により第13回小学館漫画賞を受賞。 1971年(昭和46年)より、東映特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当した。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであり、この成功をきっかけに同社における数多くの特撮・変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。 これらの実写作品では、主役などのレギュラーのキャラクターデザインを石ノ森が手がけるのが通例だったが、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』などの1970年代中期以降の作品では、毎回登場するゲストのキャラクター(敵の怪人)のデザインも数多くおこなっている。ゲストのキャラクターのデザインの多くは簡単な設定込みで石ノ森がラフスケッチを起こすという形で行われ、このラフスケッチをもとに東映の番組スタッフ側でシナリオや着ぐるみがつくられた。 1981年(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める。 1985年(昭和60年)、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎」に改名した。もともと彼のペンネームは故郷の石森町に由来するもので、「石森」と書いて「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」としか呼ばれなかったため、初心に戻る意味をこめて改名を行なったという。しかし、山田ゴロが自身のサイトで語るところによると、改名する前は打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名した頃からはそれがなくなり、石森プロに連絡しても会わせて貰えなくなった。ほどなく関係者一同の間で「先生は御病気らしい」という話が広まったという。 1988年(昭和63年)、『HOTEL』等により第33回小学館漫画賞を、『マンガ日本経済入門』により第17回日本漫画家協会賞大賞を受賞。 1989年(昭和64年/平成元年)、『マンガ日本の歴史』の描き下ろしを始めるにあたり「萬画宣言」を発表。 1992年(平成4年)、突然高熱を出し入院。風邪によく似た症状だったが、検査の結果悪性リンパ腫と診断された。その後も闘病生活の傍ら執筆活動を続けたが、次第に病状が悪化。1998年(平成10年)1月28日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院でリンパ腫による心不全のため死去、60歳没。還暦を病院で迎えてから僅か3日後のことであった。戒名は「石森院漫徳章現居士」。墓は東京都豊島区池袋三丁目の祥雲寺にある。
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