小学館漫画賞を受賞
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稲垣足穂などを研究して「耽美的なものが受ける」とも思っていた。当時の少女漫画は男女間の恋愛だけ描くよう求められており、『風と木の詩』のアイデアを50ページ描いたクロッキー帳を編集者たちに見せても否定的な反応だった。『週刊少女コミック』の新担当者から好きなテーマの作品を書くには、読者アンケートでトップを取ることだとアドバイスされ、1974年には『ファラオの墓』を描いてヒットさせ、アンケートで最高時は2位になる。スランプはいつの間にか消えていたという。この作品で、戦闘シーンなど知識が不足する部分は、編集者を通じて社費で脚本家などにアドバイスやアイデアをもらう「ブレーン手法」を知り活用する。単行本第1巻発売の時に、初のサイン会をデパート屋上で開催し、自分がやることになるとは思っていず戸惑う。増山から普通の服はダメだとパーティドレスを推奨され抵抗するが、妥協してメアリー・ポピンズ風ドレスと帽子姿となった。3,000人が集まり、以後のサイン会もレースとフリルのドレスが通例となってしまう。 『ファラオの墓』のヒットで『週刊少女コミック』の企画会議に通り、7年間にわたる念願の構想を実現して、1976年に『風と木の詩』の連載を開始。漫画家を辞めることも覚悟して挑んだ『風と木の詩』はファンから好評で、寺山修司や鶴見俊輔といった文化人や鶴見から紹介された心理学者の河合隼雄らが高く評価したこともあり、ジャンルとして定着する転機となった。これを、今までの少女漫画のレベルを超えた小さな革命と自負し、少年の同性愛を耽美的に描き、漫画界に衝撃を与えた。しかし当初は「BL(ボーイズラブ)の元祖」と称されるのを嫌っていたが、BL作家が増えBLが大きなジャンルとして成功するに従い「BLの元祖」としての位置を受け入れるようになった。 1977年、『月刊マンガ少年』にて『地球へ…』の連載を開始。SFや少年漫画を描きたいという思いは以前からあった。同年に萩尾望都も、少年誌に同様に連載していたが、少女漫画家が少年漫画誌で連載を持つことは当時としては画期的であった。翌1978年、『地球へ…』は第9回星雲賞コミック部門を受賞した。 1979年、初の自宅を建てる。1988年には神奈川県鎌倉市に転居する。 1980年、『風と木の詩』『地球へ…』で、第25回小学館漫画賞を受賞。同年、『地球へ…』が東映によってアニメ映画化された。この映画のキャンペーンの時から、マネジメントの必要性から妹がマネージャーとなる。 『扉はひらく いつまでも』に収録の「竹宮惠子略年譜」によれば1980年に戸籍名の「惠子」へ改名したとある。なお、1980年代に「竹宮恵子」から「竹宮惠子」へ改名したが、その時期については特定されていない。 1982年、両性体の架空の国の王子を主人公とする初のファンタジー漫画『イズァローン伝説』の連載を開始するが、途中で読者の価値観がリアル重視になりつつある、絵柄やこれまでの作品も含めて距離があると感じ始めた。1987年に編集者の示唆もあり終了する。19世紀末欧州が舞台の『風と木の詩』も、編集者から「どこで終わりますか」と尋ねられて、世間との差から「終わるべきなんだな」と感じた(1984年連載終了)。現実にどう生きてゆくかが大事な時代だと、『>5:00(アフターファイブ)REVOLUTION』をチェッカーズのデビューまでをヒントに青春物を描く。ただし、年来のファンには受けなかった。 1980年代半ば、増山法恵は20歳から15年間務めていた竹宮惠子プロダクションのプロデューサー兼ディレクターを辞めて独立した。
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