竹宮惠子のプロデューサーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:26 UTC 版)
「増山法恵」の記事における「竹宮惠子のプロデューサーとして」の解説
その後、竹宮が大泉から下井草に部屋を見つけて引っ越す際に、既に音大受験を巡って親子喧嘩を繰り返していた増山を、竹宮は一緒に来ないか、と誘った。竹宮にとっては、増山の的確な分析力と理想への強い志向が必要だった。1973年、『ウェディング・ライセンス』や『ロンド・カプリチオーソ』などの作品を竹宮が発表していた当時、増山は竹宮のスケジュール管理や食事の世話、担当との打ち合わせに同席するなど、竹宮をサポートしていた。 増山は漫画にもプロデューサー的なサポートが必要だと考えており、打ち合わせでは「その方向でお願いできますか?」と言う担当編集者に竹宮が「はい」と答えたのに、増山が「それは困ります」と言ってしまい、編集者が「え?どっちでしょうか?」と困惑したり、「あなたはちょっと黙っててもらえますか」「竹宮さん、この方はどういう立場の人なんですか?」と明らかに迷惑がられることもあった。慣れた編集者なら増山が竹宮のブレーン的立場であることを知っているが、はじめての相手は竹宮か増山かどちらを見てよいかわからない状態になってしまう。 増山としては竹宮の口から「うちのプロデューサーです」と言って欲しかったのだが、当時の常識としてはプロデューサー的な立場というのは会社に属して制作資金を管理して、その責任を持ちながら制作に関わる様々な判断を任される人間のことであり、竹宮が増山を「プロデューサー」として紹介しても、編集者や仕事の取引先が認めるわけもなく、「やはり、この人はマネージャーなのだな」と勘違いしてしまうのも無理からぬことだった。 1974年に竹宮の『週刊少女コミック』の担当編集者が毛利和夫に変わり、彼は竹宮に『風と木の詩』を掲載するための工夫として、読者が一位に推す作品を連載したなら、編集部は何も言えないだろう、という提案をした。増山はこの提案を笑ったという。彼女にとって、『週刊少女コミック』の1位作品は嫌いな作品ばかりであったからである。彼女は『風と木の詩』を竹宮に話を聞かされた当初から評価しており、『花とゆめ』で連載すればいい、と提案している。しかし、編集者の提案に魅力を感じた竹宮が、目的があるなら我慢ができる、と主張したところ、増山は「貴種流離譚」を提案した。竹宮は中学時代に読んだ北島洋子の漫画、『ナイルの王冠』が好きだったことを思いだし、このようにして、『ファラオの墓』は誕生したという。 その頃から増山は竹宮惠子のファンクラブを結成し、当時、高校生であった村田順子を会長にし、会報誌を作るべく情報を提供するようにもなっていた。作品のアイデア出しや、初めてのサイン会のように、作品の順位をあげるために助力していた。ただ、竹宮にとって、その姿が一般からはマネージャーにしか見えないことが最大の不満でストレスだったという。 『ファラオの墓』のヒットは竹宮に自信を与え、1976年の『風と木の詩』連載直後、竹宮は増山の『変奏曲』シリーズを3回で月刊連載している。その後も同じような短期連載を繰り返し、2人分の作家活動をしているような気分であった、と竹宮は述懐している。さらにその経験から『マンガ少年』の依頼があった時も臆することなく引き受けることができ、手塚治虫の『火の鳥』の載った雑誌ということで逡巡する気持ちもあったが、増山の少年誌を推す声に励まされて『地球へ…』の短期連載がスタートしている。この『地球へ…』と『風と木の詩』で1980年の小学館漫画賞を受賞したことに対して増山は、「私が、生涯で全身の血が逆流するくらい嬉しかったのは一度だけ。竹宮惠子が小学館漫画賞を取ったとき」と言って祝福したという。
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