スタンダード靴全国チェーンストア結成とスタンダード高等学校設立
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「スタンダード靴」の記事における「スタンダード靴全国チェーンストア結成とスタンダード高等学校設立」の解説
1952年 経済は輸出の停滞と繊維関係の不振で不景気と株高に陥るが、原皮輸入の自粛により革価格が安定し在庫も随時消化された。製靴業界も稼働率が高まり婦人靴は倍増した。この時期、磯畑専務が終戦後に密かに構想していた2つの方針を実現し売上高を年間5億から10億にする「売上高倍増運動」を推進した。1つはすでに「ヤマト商事」「アサヒ商事」で確立された婦人靴の進出であり、もう1つはスタンダード靴の全国的な販売網の確立であった。まず会社の体質を強化するために株主割当による増資、新資本金を5千万円にした。その上で東京本社・大阪支店にあった営業区分を廃止、全国一本化。営業部を営業部(販売)業務部(企画・宣伝・統制)へ分割する組織とした。製造部は本社工場(西新井)・高野工場・大阪工場の3工場を同一指導のもと技術水準を一元化した。本社工場には特選工場を設けて優秀な商品群を提供。紳士靴の小売価格を2500円から5000円までを取揃えることになる。この年、統制直後には3億6500万円(純利益951万円)だった売上も5億1000万円(純利益1646万円)まで拡大した。8月に筆記体の新商標「Standard」が作成される。「ヤマト商事」の代表取締役であった荻津完が、卸業経営の基礎ができ前途の見通しもついたことで独立「オギツ商店」を旗揚げした。 1953年 後に10年以上の大ヒットを続ける「フーバー外羽根 ST10」が販売される。この中丸ラスト「ST10」は磯畑社長の指揮のもと小泉木型製作所・本社製品研究室との間で試行錯誤の上に完成された。この新木型の誕生とともに明治製革の苦心作である「ガラス張りクローム革(改良型)」を使用し「フーバー」という戦前のヒット商品の商標を復活使用した。新ブランドマーク「Standard」が秋から採用される。昭和ゴム社と米国デュラライト社と技術提供して国産合成ゴム底「アベックス」を発表する。この年東京や近畿・京阪神など全国17地区に渡るブロック会ができチェーンストア構想が実現した。スタンダード高等学校の第一期生を募集開始。名古屋福岡の両営業所が支店へ昇格。 1954年 4年生昼間定時制高校としてスタンダード高等学校が設立される。一般教科の他に建坪250坪の付属工場を完備し、裁断・製甲・底付・仕上を実習した。世間的には神武景気で好景気とされているが、朝鮮戦争の休戦により国内景気は後退、後半には極端なデフレ状態になってしまい、国内需要は後退した。これに伴い4月30日に千代田機械製靴との合併が成立。新会社名を「ユニオン製靴(社史記述=東邦製靴)株式会社」とすることが決定した。1951年に千代田製靴は米国のゼネラル社と「ジャーマン」の国内ライセンス生産を承諾させており、更なる増産体制が必要であった。この辺りも両社が合併に踏み切った一因だった。しかしスタンダード靴の名前がなくなることは忍び難いという野村側の意見により合併話が急速に冷え込み11月28日に合併契約解除承認が可決される。この件で磯畑は代表取締役を辞任する。 1955年 池田和夫が代表取締役に就任。国内景気は財政金融引き締めで物価下落し購買力の低下から、売上高が5億3400万円で6400万円の減収となり戦後初の赤字になる。コスト削減のために淀川工場人員は200名から72名に縮小。本社工場も生産体制の再構築を行った。日本生産性本部が発足し、各業界が海外への視察を強化している中、靴業界からも前社長の磯畑弘太郎を団長として米国への視察団を結成。全米各地の製靴工場、機械製造会社、木型製造会社、化学薬品会社、靴販売業社などを視察した。
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