サンダースによる売却と急成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 13:55 UTC 版)
「ケンタッキーフライドチキンの歴史」の記事における「サンダースによる売却と急成長」の解説
KFCの登場はファストフード業界にフライドチキンを普及させ、ハンバーガーによる確立された支配に挑戦することで市場の多様化をもたらした。1960年、KFCフランチャイズに加盟するレストランは200店舗ほどだったが、1963年には600店舗を超えるほどに成長し、アメリカ最大のファストフード事業となった。1963年、サンダースはケンタッキー出身の若い百科事典セールスマン、ジョン・Y・ブラウンと出会った。ブラウンは自身がサンダースの会社に加わることを熱望していると語ったが、サンダースはそのかわりに、会社自体をブラウンに売却することを提案した。この提案の背景にあったのは、サンダースに天性のビジネスの才能はなく、目立った意欲ある後継者も親族にはいなかったという事情だった。 ブラウンの手持ちの資金はKFCを買収するには不十分だったため、投資家のジャック・C・マッシーを説得して買収資金の60パーセントを出資させた上で、自らも多くの資金を拠出した。資金の一部はフランチャイズ加盟者のピート・ハーマン、KFC役員のリー・カミングスとハーラン・アダムスによっても提供された。一方で、家族が会社の売却に反対するなか、サンダースはKFCを手放すことについて疑念を抱くようになった。1964年、ブラウンらのグループは200万ドルでKFCを買収した。買収に際しての契約内容には、サンダースへの終身給与の支給に加え、サンダースが品質管理責任者として役職にとどまり、会社のトレードマークとしてコマーシャルに出演するという合意が含まれていた。 マッシーとブラウンは統一性のなかったKFCチェーンの標準化を推し進めた。ユタ州におけるピート・ハーマンの事業を視察したあと、2人はユタ州の店舗だけの特徴だったテイクアウトのシステムをKFCチェーン全体に拡大した。フランチャイズ加盟店をKFCの商品に注力させるため、各加盟店はオリジナルの商品をメニューから削除するよう指示された。KFCに加盟しているレストランはデザインし直され、キューポラ付きのマンサード屋根をそなえた特徴的な赤と白のストライプ模様の外観になった フライドチキンのみを販売する店舗というモデルは、潜在的なフランチャイズ加盟希望者にとってより魅力的であり、独立店舗の展開によって会社の成長は加速された。 会社を売却したものの、サンダースは経営陣と加盟店に対して大きな精神的権限を持ち続けており、会社の決定に疑問を持った際は、その意見をはっきりと主張した。マッシーが本社をケンタッキー州からテネシー州ナッシュビルに移したとき、サンダースは次のように述べたと伝えられている。「テネシーフライドチキンなんかじゃ駄目なんだ。口先達者な、シルクのスーツを着たどこかの野郎が何を言おうとね。」会社がカナダで事業を展開したとき、サンダースは経営陣が自身との契約に違反したと考えた。サンダースは、契約上カナダでの事業展開は自分にのみ許された独占的な権利であると主張した。サンダースは会社の株式を150万ドル分保有しており、この争いが解決されるまでマッシーが会社を上場することを阻んだため、KFCはカナダでの活動についてサンダースとの再交渉を強いられた。ブラウンとマッシーは、サンダースの独占的権利はカナダにおけるチキンの製造過程に限られたものであると主張した。再交渉によってサンダースのカナダの事業における独占的権利が契約で認められたあと、サンダースは保有する株式を売却し、会社は1966年に上場を果たした 。KFCは上場後、フランチャイズに加盟する600店舗を買収し、直営店舗に変えた。同年にはマッシーが経営の第一線から引退し(会長として会社には残ったが)、本社がケンタッキー州ルイビルに移転することがブラウンによって発表された。 1967年までには、KFCはアメリカで6番目に売上高の大きいレストランチェーンとなっており、その売り上げの30パーセントがテイクアウトによるものだった。ブラウンは、急速に拡大しなければ、KFCはチャーチズ・チキン(英語版)のような台頭するライバルの後塵を拝すことになると考えていた。したがって、1968年には863もの店舗が開業された。KFCの成長は、その株価をロイターが「成層圏に達した」と表現するレベルにまで押し上げた。1969年にはニューヨーク証券取引所に上場された。その間、KFCは他社とともに新事業に乗り出していた。ブラウンは、「カーネル・サンダース」というブランドはあらゆる商品のマーケティングに利用できると考えていた。ブラウンは「ケンタッキーローストビーフ」(レストランチェーン)と「カーネル・サンダース・イン」(モーテル)を開業した。ローストビーフチェーンは1970年までに100店舗を抱えていたものの、これらふたつの新事業はすぐに経営破綻した。1970年には、カリフォルニアに本拠を置くフィッシュ・アンド・チップスチェーンのH・ソルト・エスクァイア(英語版)との合弁事業にも乗り出し、これは一定の成功を収めたが、1980年には事業が売却される結果となった。 1970年3月、マッシーはKFC会長を辞任し、ブラウンがその後継者となった。1970年までに、KFCチェーンは48の国で3000の店舗を抱えていたが、その拡大はしばしば無秩序に行われており、手際の悪いものだった。地域マネージャーに昇進したデイヴ・トーマスは、KFCがあまりにも「会社的」になっており、大量の「取るに足りない」メモが送られて来るとした上で、ブラウンにはやる気を引き起こさせる能力が欠けていると不満を述べた。KFCの最高幹部の1人は、会社の国際戦略を「壁に掛かった地図に泥を投げつけて、いくらかの泥がへばりついたまま残ることを願っている」ようなものだと表現した。日本における最初の店舗は、たった2週間の準備の後に開業された。この日本第1号店は最初の1ヶ月で40万ドルの損失を出す大きな失敗となり、売ったフライドチキンよりも廃棄されたものの方が多かった。1971年7月、KFCが過去6カ月間で初めての減益を記録したことで経営上の問題が明るみに出た。
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