サンの岩面画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
ボツワナ、さらにアフリカ南部のほとんどの地域における先住民族はサン、いわゆるブッシュマンである。サンの言語であるク語 (!xu) ではサンをズー・トゥワシ (Zhu twasi) すなわち「真の人間」と呼ぶ。ツワナ語ではサンをサルワと呼ぶ。サンは口承伝承をほとんど持たない。祖先を崇拝せず直接記憶に残る親族より古いものの記録は残さないし、恒久的な墓を持たず偉人や偉大な祖先を讃えることをしない。特定の未来を表す単語を持たず、暦を用いず、4以上の数を数えない。徹底した平等主義者であり、集団内部に職業集団などの階級はなく、リーダーもいない。父と父の兄弟、母と母の姉妹を区別しないため、出自集団もなく、従って部族、氏族といったサン内部の共同体組織・組織化された社会集団も存在しない。さらに物質的な蓄積に関心がないため、村を作らず、獣を使役せず、直接背負える道具以上の家財も持たない。このため研究が難しい民族でもある。 ただし以上のような特徴からサンが「野蛮」であると判断するのは早計である。サンは現実を最重要視する民族であり、厳しい生活環境に適応する知識、技術に特化しているといえる。集団の力で生きるツワナ人が餓死してしまうような歴史に残る干ばつの年でも、サンは影響を受けない。蓄えもなく、ツワナ人よりも過酷な環境に暮らしているにもかかわらず。これはサバンナの樹木1本1本を固有名詞で呼び、砂漠に住む全ての生物に関する知識と、これを生かす技術があるからだ。例えばたった1人で射程数mの弓のみを使って大型の草食動物を倒し、地中の昆虫を試行錯誤することなく直接掘り当て食料とすることもできる。 文字を持たず、口承伝承を重視しないサンの歴史を知るには岩壁に描かれた絵画「岩面画」が役立つ。現在のタンザニア、ナミビア、南アフリカ共和国を結ぶ三角形に囲まれた地域において、3000カ所にも及ぶサンの遺跡が残っている。遺跡に残る絵画が「岩面画」である。岩面画の総数は10万点を超える。最も有名な岩面画はボツワナ最北部のツォディロ丘陵 (Tsodilo Hills) に残る2000点の絵画だ。ツォディロ岩面画の年代については放射性炭素年代測定により、紀元前4000年と計測されている。他の地域にある最初期の遺跡は約2万5000年前と考えられている。興味深いことに最も新しい岩面画にはヨーロッパ人が登場する。デスモンド・クラークの「石器時代の美術」によると、1869年にゴウ-ウという名のサンの画家がボーア人の対アフリカ人戦闘部隊に受けた攻撃に関する絵を描いたのだという。現在生存しているサンの画家はいないが、当時は角で作った絵の具つぼを腰の周りにずらりと釣った画家が何十人も知られていた。以上から、断続的とはいえ6000年以上に及ぶ記録が残っていることになる。 最初期の岩面画には、アンテロープなどの野生動物のほか、ダチョウや魚、ヘビなどの狩猟対象となる動物や薬草などが主題となっている。現実には存在しない架空の動物も登場する。幾何学図形や手形も残る。手形は重要である。なぜなら、岩面画を残したのがサンであることが分かるからだ。時代が下ると、舞踊、楽器、呪術儀式が現れる。さらに、北方から移動してきたバンツー系民族と彼らの家畜が現れる。これは西暦500年以降のものだ。最後に鉄砲を持ち乗馬したヨーロッパ人が主題となる。絵画の様式も輪郭のみを描いたものから、単色の絵画、二色の絵画、多数の顔料を用いた絵画、光の効果を含んだ絵画というように順序建てて発展していく。 サンの生活域は当初はコイ(ホッテントット)と重複していたが、ウシなどの家畜を所有するコイと狩猟生活のみに依存するサンにしだいに分化していった。現在のボツワナにあてはめると、特に乾燥していた南西部と北西部にサンが、比較的湿潤な北部と中部はコイの領域となっていった。コイはアフリカ大陸南端にいたる地域に広がっていった。
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