クロムウェルの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:24 UTC 版)
「ジョン・クロムウェル (軍人)」の記事における「クロムウェルの最期」の解説
「スカルピン (SS-191)#スカルピンの最期」も参照 11月16日、「スカルピン」の担当海域に日本船団が通過する、という情報を傍受した太平洋艦隊無線班は、作戦兼情報担当参謀リチャード・G・ヴォージ大佐(アナポリス1925年組)を介して「スカルピン」に船団を迎撃するよう指令を発した。情報からは、その船団は重要なものと思われる兆候が見られた。無線班は11月19日に日本商船が攻撃を受けたという情報と、日本海軍駆逐艦が潜水艦を撃沈したという無電を傍受したが、大して気にも留めていなかった。しかし、この2つの情報を傍受ののち、「スカルピン」の動静は音沙汰なしとなり、11月29日に「スカルピン」に対してウルフパックの解散とエニウェトク環礁の偵察を命じたが状況は変わらず、ここで「スカルピン」が失われたことに気付いた。 11月18日夜、「スカルピン」は「大規模高速船団」をレーダーで探知し、これが無線班のいう日本船団と判断して追撃を開始したが、その船団の実態は日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」であり、翌11月19日明け方に「山雲」は浮上航行中の「スカルピン」を発見して接近を開始した。「スカルピン」は潜航を余儀なくされたが、間もなく「スカルピン」に追いついた「山雲」が猛烈な爆雷攻撃を幾度も行い、「スカルピン」は一度のみ浮上したほかは潜航を強いられ、爆雷攻撃による漏水はおびただしくソナーも破壊された。コナウェイは、生存のチャンスを得るために意を決して浮上した。 「スカルピン」は「山雲」の右前前方に浮上し、これを見た「山雲」は12.7センチ砲と25ミリ機銃による攻撃を開始する。浮上した「スカルピン」は潜望鏡が折れ曲がる悲惨な状況であったが、それでもコナウェイは砲戦の配置を令して「山雲」に挑戦した。しかし、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の艦橋に命中してコナウェイ以下「スカルピン」の幹部が戦死し、射手も砲弾の破片で切り裂かれて戦死した。「スカルピン」の生存者で最先任の中尉が戦死したコナウェイに代わって艦の放棄と自沈を令し、乗組員は脱出を開始した。戦闘のさ中、クロムウェルは一つの決断を秘めていた。ウルトラ情報とガルヴァニック作戦に関するあらゆる情報を持ち合わせていたクロムウェルは、艦を捨てて日本軍の捕虜になったら最後、薬物や拷問攻めの尋問の末に機密情報を供述する可能性に感づいた。機密情報が敵に知られたら味方の作戦遂行に多大な支障が出ることが明らかであったため、クロムウェルは捕虜になることを拒否し、C・G・スミス・ジュニア少尉以下11名の乗組員とともに「スカルピン」を去ることなく、艦と運命を共にした 。 「スカルピン」の生存者はトラック島の日本軍基地で約十日間の尋問を受け、救助した駆逐艦の名前を "YOKOHAMA" と教えられた。その後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して日本本土へ連行された。しかし、「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で「冲鷹」が沈没した際に19名が死亡し、残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助された。「雲鷹」に乗艦した21名の乗組員は12月5日に日本に到着、大船収容所や東京俘虜収容所(大森)に収容。さらなる尋問の後、終戦まで足尾銅山で使役された。このような体験をした「スカルピン」生存者の一人が、クロムウェルの自己犠牲の行為について太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)に報告し、ロックウッドはクロムウェルに対する名誉勲章の死後追贈を申請して受理され、名誉勲章はマーガレット未亡人に授与された。 「スカルピン」が喪失したことを知っていたホルムズは、上述のような行為があったことも当時は知らずにクロムウェルは戦死したものと判断していた。そのような事情から、妻のイザベルがクロムウェルの約束通りにクリスマス・プレゼントを郵送するのを見ていて心を痛めた。「スカルピン」の喪失が宣告されたのは1943年12月30日のことであり、この日までマーガレット以下クロムウェルの家族がクロムウェルの戦死を知ることはなかった。
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