スカルピンの最期
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「スカルピン (SS-191)」の記事における「スカルピンの最期」の解説
11月16日、スカルピンは担当海域に到着した。2日後の11月18日夜、スカルピンはトラック北方で大規模高速船団をレーダーで探知し、重要な艦隊か船団と見て追跡した。スカルピンが追ったこの船団の正体はギルバート方面への増援部隊や支援の艦隊ではなく、日本本土へ帰る練習巡洋艦鹿島と潜水母艦長鯨、そしてその護衛の駆逐艦若月と山雲であった。翌11月19日未明、スカルピンは浮上航行し攻撃位置を取ったものの、その時点で山雲に発見されていた。船団がジグザグのコースで向かってきたため潜航を余儀なくされた。間もなく山雲がスカルピンに追いついて、爆雷を3発ずつ2度にわたって投下。さらに間をおいて爆雷10発を投下した。この攻撃でスカルピンは測深機を損傷し、その他の小被害が生じた。スカルピンは駆逐艦によるスコールの様な攻撃を回避し、潜望鏡深度への浮上を試みた。今回の被害は大きく、深度をコントロールすることが不能となる。結果としてスカルピンは船体内にかなりの漏水が生じ、安全深度で潜航した。11時9分ごろに一度は水面上に浮上したものの、山雲が至近にいたのでスカルピンは直ちに潜航した。山雲は3度にわたって合計17発の爆雷を投下。大量の浸水は深度を維持するため最高速での航行を強いることとなる。これにより山雲はソナーによりスカルピンを容易に追跡できることとなった。2度目の爆雷攻撃はスカルピンのソナーを破壊し、スカルピンは盲目状態にあった。12時56分、コナウェイ艦長は艦を水面に浮上させ、生き残るためのチャンスを与えることを決定した。甲板はまだ冠水し潜望鏡は破損、スカルピンの艦載砲は駆逐艦の主砲に対抗できるものではなかった。 スカルピンの浮上を待っていたかのように、山雲は真横にいるスカルピンに対して砲撃と機銃掃射を開始。これらの砲弾が司令塔を直撃し、コナウェイ艦長を含む艦橋にいた乗組員が死亡。また破片により砲手も死亡した。機銃の射手は負傷しつつも唯一の反撃を続けていたが、山雲の砲撃の結果、スカルピンは後部から炎上し始めた。ここに至って、生き残ったスカルピンの先任士官は自沈を命じた。彼は排水弁を開く前にクロムウェル大佐に報告を行った。大佐は来るべきガルヴァニック作戦およびその後の作戦に関する重要な情報を知っており、拷問や薬物によってこれらの情報を自白することを恐れた。彼は放棄されたスカルピンからの脱出を拒絶し、自らの命を捧げた。クロムウェル大佐はこの英雄的行動により死後名誉勲章を受章した。スカルピンの乗組員のうち、士官3名を含む42名は山雲によって救助され、1名の重傷者はその容体から救助されなかった。以前、山雲は護衛していた大型輸送船龍田丸を米潜水艦の襲撃で撃沈された経験があり(龍田丸は乗組員便乗者約1500名全員戦死)、山雲の乗組員は龍田丸の仇を討とうとした。しかし小野四郎山雲駆逐艦長はスカルピンの生存者救助を実施し、艦上でコーヒーとトーストを与えたという。 スカルピンの生存者はトラック島の日本軍基地で約十日間の尋問を受け、救助した駆逐艦の名前を "YOKOHAMA" と教えられた。その後2隻の空母冲鷹と雲鷹に分乗して日本本土へ連行された。12月2日、冲鷹はアメリカ潜水艦セイルフィッシュに撃沈された。この攻撃で冲鷹に乗艦のアメリカ兵捕虜20名の内19名が死亡し、残る1名は通過する日本軍駆逐艦(浦風もしくは漣)の船体梯子を掴んで救助された。皮肉にもセイルフィッシュは - 当時はスコーラスの艦名であった - 4年半前にスカルピンが救助を支援した艦であった。雲鷹に乗艦した21名の乗組員は12月5日に日本に到着、大船収容所や東京俘虜収容所(大森)に収容。さらなる尋問の後、終戦まで足尾銅山で使役された。 スカルピンは第二次世界大戦の戦功で8個の従軍星章を受章し、加えてフィリピン共和国殊勲部隊章(英語版)を受章した。
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