クロムウェルの遠征と虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:21 UTC 版)
「清教徒革命」の記事における「クロムウェルの遠征と虐殺」の解説
詳細は「クロムウェルのアイルランド侵略」を参照 イングランド共和国は内戦のきっかけだったカトリック同盟への敵意、および大陸へ亡命していた王党派がアイルランド経由でイングランドへ上陸する恐れからアイルランド遠征を検討、アイルランド司令官として選ばれたのがクロムウェルである。婿のヘンリー・アイアトンを副司令官としたクロムウェルのアイルランド派遣軍は補給など下準備を整えた上で1649年8月12日にアイルランドに上陸した。これに対する諸勢力はクロムウェル上陸前に弱体化していて、カトリック同盟はオーモンド侯との交渉を巡る対立で分裂したままで、王党派に協力する賛成派は元より、反対派を率いるオーウェンの軍勢も戦力不足のため5月にアイルランドに駐屯していた議会軍のマンクと休戦を結んでおり、とてもクロムウェルに対抗出来る状態に無かった。オーモンド侯ら王党派も8月2日のラスマインズの戦いで議会軍の奇襲で大敗、クロムウェルの討伐対象は足並みが乱れた王党派に向けられた。 クロムウェルがアイルランドに上陸すると、9月11日のドロヘダ攻城戦を始め王党派は一般市民もろとも虐殺され、オーモンド侯はなすすべも無く1650年末にフランスへ亡命した。続いて攻撃されたカトリック同盟もたちどころに敗勢となり、11月のオーウェン死亡も相まってクロムウェルに撃破され、アイルランドはクロムウェルに大半を制圧された。1650年5月にスコットランド迎撃のためクロムウェルは途中で帰国したが、アイアトンが遠征を引き継ぎ、1651年11月のアイアトンの死後はチャールズ・フリートウッドとエドマンド・ラドローが継続、1652年には組織的抵抗が不可能な状況になり、5月に事実上終戦を迎えた。 このクロムウェルの征服の最中、および彼がスコットランドに渡った後、酸鼻をきわめる虐殺がアイルランド各地でおこった。かつて蜂起の際にニュー・イングリッシュへの略奪・虐殺があったことは確かであるが、それを遥かに上回る規模の意趣返しが行われた。陥落した都市から小舟で逃げようとする市民を舟ごと沈めたり、敗残兵・農民が避難した教会を建物ごと焼いたりといったことが繰り返され、当時の人口の1/3であった60万人が殺されるか奴隷として売られるか、あるいは餓死したとされる。 ゲール人の中心都市ゴールウェイの市民は追放され、3万人が大陸に移住してゆき、残ったのは「トーリー」とよばれる追いはぎだけであった。これが後にトーリー党の名の由来となる。殺戮がここまで大規模になったのは、クロムウェル自身が「野蛮人に対する神の正当な裁き」であるとしたこともあるが、共和政府軍の兵士たちの間にもバプテストが浸透しており、これがカトリックに対する過剰な敵意となったことが指摘されている。こうした虐殺はアイルランド人の記憶に残り、現在まで語り継がれている。
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