クロムウェルの攻城戦(1649年)
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「ドロヘダ攻城戦」の記事における「クロムウェルの攻城戦(1649年)」の解説
オリバー・クロムウェルは1649年8月にアイルランドに上陸、イングランド議会に代わってアイルランド再占領を開始した。その頃ドロヘダはアーサー・アーストン率いる王党派(国王派)とアイルランド・カトリック同盟の部隊がこれを守備していた。その総数は3,100人程度で、おおざっぱな内訳としては半分はイングランド人、もう半分はアイルランド人であった。クロムウェルは有していた軍18,000のうち12,000、さらに攻城用の48ポンド重砲11門をドロヘダに差し向けた。 イングランド内戦中、クロムウェルは議会派で特に騎兵隊(鉄騎隊)の優れた指揮官として知られるようになっていたが、攻城戦においても経験豊富であった。たとえば彼は1645年にベイジング・ハウスの攻略(en)を指揮しており、ここはその年にクロムウェルが落とした一連の国王派拠点のうちの一つであった。この他にも多くの攻城戦を指揮しており、ペンブルック城は7週間の包囲戦(en)の後1648年に攻略し、ポンテフラクト城(en。ここは「王国内最強の国内駐留軍の一つ」とされていた)もその年の後半に攻略している。 クロムウェルはドロヘダに留まる余裕はなかったため、長い期間包囲を敷いて降伏させるという策は選択肢になく、リスクは高いが早い選択肢である都市への強襲を選択した。クロムウェルは軍をボイン川の南岸に配置したがこれは攻撃を集中するためで、彼は北部から都市に補給が入ることは憂慮していなかった。加えて議会派の艦隊が港を封鎖した。 9月10日月曜日、クロムウェルは国王派の知事であるアーストンに手紙を送り、それにはこう書かれていた[要出典]。 拝啓、イングランド議会軍をこの場に配置し続けているのは服従させるためでありますが、上記のことを私みずからあなたに勧めるのが適当であると考えました。もしこれを拒絶するなら、あなたには私を非難することはできません。私はあなたの答えを期待しています、敬具 —O. Cromwell 当時の戦争ルールでは、もし降伏を拒否し駐留軍が攻撃に出た場合守備兵は殺されるものであった(包囲戦で城壁を突破し攻撃したのちの降伏を受け入れるかは、攻め手の裁量 (en) に任せられた)。従って、戦いの際にクロムウェルの手紙で言い渡されたことは明白である。 アーストンが降伏を拒否したためクロムウェルは砲撃を開始した。翌日の9月11日、キャノン砲は長距離から中世以来の市壁を砲撃し2か所を破り、クロムウェルは攻撃を命じた。突破口からクロムウェルの部下が攻撃する前には2度の議会派部隊の攻撃が退けられていた。 国王派が降伏を拒否したのでクロムウェルは、彼の言葉によれば「戦いの最中、彼ら(彼の兵士)に、都市内で武装しているいかなるものへの助命は禁止した」という[要出典]。駐留軍は虐殺され、都市内で見つかったカトリック聖職者もやはり虐殺された。 都市に侵入した後、ニューモデル軍兵士は通りから守備兵を追いかけ、彼らが逃げたためそれらを殺害した。守備隊の一群はミルマウント・フォート(en)に立てこもり、東門が持ちこたえている一方で都市の残りが略奪にあっているのを目にした。彼らは降伏が協議されたが武器を取り上げられ殺害された。もう1つの一団は聖ピーター教会(ドロヘダの北端に位置していた)にいたが、ジョン・ヒューソン(en)率いる兵士が教会に火を放ったため焼死した。伝えられるところによると、アーストンは自身の木製義足で殴り殺されたといわれ、ニューモデル軍兵士はこの中に金が隠されていると思っていたという。後のジャコバイトのティアコネル伯リチャード・タルボットは、略奪から生き延びた数少ない駐留軍の一員であった。 150ほどの議会派兵士がこの戦いで死亡し、少数の生き残った国王派兵はバルバドスへ追放された。クロムウェルは9月16日にこう記している。「私たちはすべての守備兵を始末したと私は信じています。私は全体のうち30人ほども生き延びたとは思っていません。そうしたものはバルバドスのために安全に拘置しました」。ジョン・ヒューソン大佐は「塔の中には200人ほどがいるが、それらは将軍がたの慈悲を与えられ、ほとんどが彼らの命をとりとめバルバドスに送られる」と書いているが、この囚人200人は国王派と考えられるものと一致している。いくつかの記事ではドロヘダ陥落後の混乱の中で死亡した市民はわずか700人であると主張しているが、ほかの記事ではもっと多い[要出典]。しかしながら、ジョン・バラットの2009年『イングランド内戦の攻城戦』では「実際のところ、市民の大半は戦闘に参加したという証拠がなく…さらに、多くが殺されたという両陣営の信頼に足る記録もない。...議会派軍は自軍150人、そのほか3500人の死者と見積もった。後者の数字はドロヘダの駐留軍の数とほぼ正確に一致する」と著している。
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