クロムウェルの攻城戦とは? わかりやすく解説

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クロムウェルの攻城戦(1649年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 10:02 UTC 版)

ドロヘダ攻城戦」の記事における「クロムウェルの攻城戦(1649年)」の解説

オリバー・クロムウェル1649年8月アイルランド上陸イングランド議会に代わってアイルランド占領開始したその頃ドロヘダアーサー・アーストン率い王党派国王派)とアイルランド・カトリック同盟部隊がこれを守備していた。その総数は3,100程度で、おおざっぱな内訳としては半分イングランド人もう半分アイルランド人であったクロムウェル有していた軍18,000のうち12,000、さらに攻城用の48ポンド重11門をドロヘダ差し向けたイングランド内戦中、クロムウェル議会派で特に騎兵隊鉄騎隊)の優れた指揮官として知られるようになっていたが、攻城戦においても経験豊富であった。たとえば彼は1645年にベイジング・ハウスの攻略en)を指揮しており、ここはその年にクロムウェル落とした一連の国王派拠点のうちの一つであったこの他にも多く攻城戦指揮しており、ペンブルック城は7週間包囲戦en)の後1648年攻略しポンテフラクト城(en。ここは「王国最強国内駐留軍一つ」とされていた)もその年の後半攻略している。 クロムウェルドロヘダ留まる余裕はなかったため、長い期間包囲敷いて降伏させるという策は選択肢になく、リスクは高いが早い選択肢である都市への強襲選択したクロムウェルは軍をボイン川南岸配置したがこれは攻撃集中するためで、彼は北部から都市補給が入ることは憂慮していなかった。加えて議会派艦隊が港を封鎖した9月10日月曜日クロムウェル国王派知事であるアーストンに手紙送り、それにはこう書かれていた[要出典]。 拝啓イングランド議会軍をこの場に配置し続けているのは服従させるためでありますが、上記のことを私みずからあなたに勧めるのが適当であると考えました。もしこれを拒絶するなら、あなたには私を非難することはできません。私はあなたの答え期待しています、敬具 —O. Cromwell 当時戦争ルールでは、もし降伏拒否し駐留軍攻撃出た場合守備兵殺されるものであった包囲戦城壁突破し攻撃したのちの降伏受け入れるかは、攻め手裁量 (en) に任せられた)。従って、戦いの際にクロムウェルの手紙で言い渡されたことは明白である。 アーストンが降伏拒否したためクロムウェル砲撃開始した翌日9月11日キャノン砲長距離から中世以来市壁砲撃し2か所を破りクロムウェル攻撃命じた突破口からクロムウェル部下攻撃する前に2度議会派部隊攻撃退けられていた。 国王派降伏拒否したのでクロムウェルは、彼の言葉によれば戦い最中、彼ら(彼の兵士)に、都市内武装しているいかなるものへの助命禁止した」という[要出典]。駐留軍虐殺され都市内見つかったカトリック聖職者もやはり虐殺された。 都市侵入した後、ニューモデル軍兵士通りから守備兵追いかけ、彼らが逃げたためそれらを殺害した守備隊一群はミルマウント・フォート(en)に立てこもり東門持ちこたえている一方で都市残り略奪にあっているのを目にした。彼らは降伏協議されたが武器取り上げられ殺害された。もう1つ一団は聖ピーター教会ドロヘダ北端位置していた)にいたが、ジョン・ヒューソン(en率い兵士教会火を放ったため焼死した伝えられるところによると、アーストンは自身木製義足殴り殺されたといわれ、ニューモデル軍兵士この中に金が隠されていると思っていたという。後のジャコバイトのティアコネル伯リチャード・タルボットは、略奪から生き延びた数少ない駐留軍一員であった150ほどの議会派兵士がこの戦いで死亡し少数生き残った国王派兵はバルバドス追放された。クロムウェル9月16日にこう記している。「私たちすべての守備兵始末したと私は信じてます。私は全体のうち30人ほども生き延びたとは思っていません。そうしたものはバルバドスのために安全に拘置しました」。ジョン・ヒューソン大佐は「塔の中には200人ほどがいるが、それらは将軍がたの慈悲与えられ、ほとんどが彼らの命をとりとめバルバドス送られると書いているが、この囚人200人は国王派考えられるものと一致している。いくつかの記事ではドロヘダ陥落後の混乱の中で死亡した市民はわずか700人であると主張しているが、ほかの記事ではもっと多い[要出典]。しかしながら、ジョン・バラットの2009年イングランド内戦攻城戦』では「実際のところ、市民大半戦闘参加したという証拠がなく…さらに、多く殺されたという両陣営信頼に足る記録もない。...議会派軍は自軍150人、そのほか3500人の死者見積もった後者数字ドロヘダ駐留軍の数とほぼ正確に一致する」と著している。

※この「クロムウェルの攻城戦(1649年)」の解説は、「ドロヘダ攻城戦」の解説の一部です。
「クロムウェルの攻城戦(1649年)」を含む「ドロヘダ攻城戦」の記事については、「ドロヘダ攻城戦」の概要を参照ください。

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