カラク‐じょう〔‐ジヤウ〕【カラク城】
カラク城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 16:20 UTC 版)
「カラク (ヨルダン)」の記事における「カラク城」の解説
カラクの十字軍の城は、シリアにあるクラック・デ・シュヴァリエなどと並び保存状態が非常に良い。ケラク城は1142年、エルサレム王フールクの部下ペイヤン・ル・ボーテイエ(Payen le Bouteiller)の手によって建設が始まった。十字軍の間ではこの城はクラック・デ・モアビテ(Crac des Moabites、モアブの城)またはモアブのケラク(Kerak in Moab)などと呼ばれていた。城は古くからこの地にあった高名な教会・ナザレ教会の周囲に築かれている。 ペイヤンはエルサレム王国の封臣トランスヨルダン領主(Lord of Oultrejordain)でもあり、ケラクはさらに南の死海とアカバ湾の間にあったクラック・ド・モンレアル(Krak de Montreal、モンレアル城)に代わりトランスヨルダン領の中心となった。ヨルダン川の東岸にあったカラクは、ダマスカスからエジプトやメッカに至る交易路や砂漠に住むベドウィン諸部族を抑えることができる位置にあった。ペイヤンの死後、カラクは次のトランスヨルダン領主となった甥のモーリス(Maurice)、およびその次の領主フィリップ・ド・ミリー(Philippe de Milly、第7代テンプル騎士団総長、モーリスの娘イザベラと結婚)の手により塔が増築され、北側と南側には岩盤に深い防御用の堀が刻まれた(南側の堀は用水槽も兼ねていた)。現存する中で最も特筆すべき建築的特徴は北の城壁であり、その中に巨大な筒状ヴォールトのあるホールが2層にわたり造られている。これらのホールは住居および厩舎に使われたほか、城の入り口を見下ろす戦闘用の回廊として、攻城兵器から放たれる石などからの避難所としても使用された。 1176年、もとアンティオキア公でザンギー朝に囚われていたルノー・ド・シャティヨンは多額の釈放金を積んで出獄し、直後にフィリップ・ド・ミリーの娘エティエネット・ド・ミリー(Etienette de Milly / Stephanie de Milly、オンフロワ・ド・トロン3世の未亡人)と結婚してトランスヨルダン領とカラク城を手に入れた。カラク城を拠点にルノーは隊商を何度も襲い、果てはメッカへの巡礼者までをも襲った。1183年、サラーフ・アッディーン(サラディン)はルノーの度重なる攻撃の報復としてカラク城を包囲した。城内ではあたかもエルサレム王国のイザベル王女(後のエルサレム女王イザベル1世)とオンフロワ・ド・トロン4世の結婚式が行われていたが、城内からの申し出を受けたサラディンは騎士道的な態度から結婚式の行われている部屋を攻城兵器による攻撃の対象から外した。イザベルの兄ボードゥアン4世は重い病を患っていたが自ら救援の軍を率いてカラク城を死守している。 1187年のハッティーンの戦い以後、サラディンはエルサレムはじめ十字軍国家の拠点をパレスチナから一掃し、カラク城も攻囲した。ケラク城は1年以上戦い抜いたが、途中飢えに苦しむ守備側は食糧を手に入れるため女子供を奴隷に売るまでに追い込まれたとも言われ、最終的には1189年に落城しサラディンのアイユーブ朝の手に渡った。 1263年、アイユーブ朝に代わりエジプトを支配したマムルーク朝の王バイバルスはカラク城を手に入れ、ナザレ教会を取り壊すなどして補強を行い、北西角に新たな塔を築いた。 オスマン帝国時代、カラク城はシリア地方とアラビア・エジプトの間を結ぶ交易路を抑える拠点としてなおも戦略上重要な要塞であった。1840年の第2次シリア戦役(英語版)でムハンマド・アリー朝エジプトの総督イブラーヒーム・パシャは、オスマン帝国軍の守るカラク城を落とし、城の大半を取り壊した。 カラク城は戦略的要衝である台地の南端一帯を占めている。十字軍建築の好例として、またヨーロッパとビザンチンおよびアラブの建築様式が混じり合った例として、カラク城はよく知られている。城の内部にはカラク考古学博物館があり、2004年には改修を経て再開館している。博物館は先史時代からモアブ、ローマ、ビザンチン、イスラム時代に至るカラク地域の地方史、およびカラク城とカラクの町の歴史を、カラク地域やカラク城から出土した考古資料の展示を通じて紹介している。 2016年12月18日、城に立て籠もり観光客を人質にしていた武装集団と警察の間で銃撃戦が有り、カナダ人1人、ヨルダン人市民2人、警察官7人の計10人が殺害された。また、市民や警察官が27人負傷した。
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