カムの反乱と虐殺とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > カムの反乱と虐殺の意味・解説 

カムの反乱と虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 04:24 UTC 版)

チベット問題」の記事における「カムの反乱と虐殺」の解説

カム反乱」も参照 1954年頃から、中国対する東チベットカム地方中心とするカム反乱がはじまる。これはチベット動乱きっかけとなった中国1955年11月西康省およびチベット族自治区廃止し、「自治州」に格下げして四川省併合カム地域新たにカンゼ・チベット族自治州となる。この年年末から翌1956年春にかけて、アバ・チベット族チャン族自治州涼山イ族自治州土地改革開始する。 しかし、この改革反発した地域住民らが武装蜂起をした。中共党史資料出版社刊行した新中国軍事活動紀実』によれば反乱軍10万人にもおよび、中共軍は65000の兵士動員し鎮圧するまで二年を要した, 。平定57年末となり、約20000人のチベット人虐殺され20000人が逮捕された, 。武装蜂起チャムド地区にも波及し1956年7月下旬、ギャムダ・ゾン(県)のジミ・ゴンポらが蜂起している。同年11月にはツェワン・ドルジも蜂起をし、11月末には中共軍との激戦展開した人民解放軍各地住民から武器回収実施したリタン(康定の西100km)の僧院にも武器提出命じたが、僧院拒否したため、人民解放軍は僧を庭に連れ出し民衆の前で武器提出する様子見せ付けた中国共産党政府チベットの宗教を「有害」と見なし一切寺院僧侶除去すること、そしてあらゆる神搾取道具ということ宣言したことで、チベット人怒り噴出し1956年6月には、アムドカム東部当地多く成人男性山岳地帯ゲリラ組織チュシ・ガンドゥク」に加わり大規模な反乱発生した同年リタンデルゲカンゼニャロン、ポなど各地でも反乱発生し、その兵力は6にもなった。 他方当時チベットにはバタンリタンカンゼデルゲ中国人民解放軍駐屯地設置されていた。チベットカンパ(=カムの人の意)たちは駐屯地接続する交通に対して継続的な攻撃加え兵站路を破壊するなど攻撃をした。ゴロク族の部隊中国人民解放軍の3個連隊殲滅したともされ一時的には、中央チベットに繋がる道路中華人民共和国西部からアクサイチン砂漠越え一本だけになったともいわれる[要文特定詳細情報]。それに対して中共軍は、兵4民兵6戦力で東チベット平定当たったチベット平定毛沢東による指示であったといわれるリタン リタン(北緯295229東経1011906秒 / 北緯29.874588度 東経101.318321度 / 29.874588; 101.318321) リタン住民僧院篭城し、ゲリラ戦展開した人民解放軍爆撃前に降伏勧めリタン住民降伏するとしてユンリ・ポンポを人民解放軍送り込んだ。ところがユンリ・ポンポは隙を見て人民解放軍司令官射殺人民解放軍リタン爆撃開始した爆撃により、リタン僧院壊滅し少なくとも3千人から5千人死亡したとされる以後中共軍によって、続いてバタンチャムドデルゲ占領されていく。 ニャロン ニャロン(北緯312600東経1003708秒 / 北緯31.433204度 東経100.618973度 / 31.433204; 100.618973) ニャロン(康定北西200km)では、ドルジェ・ユドンという若い女主体となって人民解放軍対峙し、中国兵600のうち400殺害した人民解放軍は兵2投入したためニャロンチベット人ゲリラ戦展開した。この戦闘で、人民解放軍は2千の損害被った中国は東チベット大きな影響力を持つカルマパ16世に仲介をさせて一時休戦となったが、結局はまた反乱となった1956年から58年の間に人民解放軍は4の兵を失ったとされる。その報復もあってか、人民解放軍兵士によりチベット人若い女多数強姦され、男は断種された。また、何千という公開処刑残酷な方法行われ生きながら焼き殺された者もあった。僧や尼にも侮辱加えられた, 。 チベット亡命政府によれば1952年-1958年における「カンロ地区」(中国区分甘粛省甘南州)においてチベット人10,000人が虐殺された(カンロ虐殺)。 中国共産党側の資料では、1956年末、中国区分四川省所属する涼山美姑西昌康定西蔵所属当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康らによる第1次蜂起起き中国軍は1957末に「平定」に成功。さらに反乱勢力10万人に人民解放軍6動員して鎮圧」する。中国共産党発表によれば20,000人を殲滅し、20,000人を逮捕した1957年にはチベット全土展開する人民解放軍20にのぼり、うち15が東チベット配置された。なお人解放軍中にはチベット側に寝返る者もいた。 1957年から58年にかけて、バタン巴塘)、維西徳欽中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」した。

※この「カムの反乱と虐殺」の解説は、「チベット問題」の解説の一部です。
「カムの反乱と虐殺」を含む「チベット問題」の記事については、「チベット問題」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「カムの反乱と虐殺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カムの反乱と虐殺」の関連用語

カムの反乱と虐殺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カムの反乱と虐殺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのチベット問題 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS