カムの反乱と虐殺
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「カム反乱」も参照 1954年頃から、中国に対する東チベットのカム地方を中心とするカム反乱がはじまる。これはチベット動乱のきっかけとなった。 中国は1955年11月、西康省およびチベット族自治区を廃止し、「自治州」に格下げして四川省に併合、カム地域は新たにカンゼ・チベット族自治州となる。この年の年末から翌1956年春にかけて、アバ・チベット族チャン族自治州、涼山イ族自治州で土地改革を開始する。 しかし、この改革に反発した地域の住民らが武装蜂起をした。中共党史資料出版社が刊行した『新中国軍事活動紀実』によれば、反乱軍は10万人にもおよび、中共軍は65000の兵士を動員し、鎮圧するまで二年を要した, 。平定は57年末となり、約20000人のチベット人が虐殺され、20000人が逮捕された, 。武装蜂起はチャムド地区にも波及し、1956年7月下旬、ギャムダ・ゾン(県)のジミ・ゴンポらが蜂起している。同年11月にはツェワン・ドルジも蜂起をし、11月末には中共軍との激戦が展開した。 人民解放軍は各地で住民から武器回収を実施した。リタン(康定の西100km)の僧院にも武器提出を命じたが、僧院が拒否したため、人民解放軍は僧を庭に連れ出し、民衆の前で武器を提出する様子を見せ付けた。 中国共産党政府がチベットの宗教を「有害」と見なして一切の寺院と僧侶を除去すること、そしてあらゆる神が搾取の道具だということを宣言したことで、チベット人の怒りは噴出し、1956年6月には、アムドやカム東部で当地の多くの成人男性が山岳地帯のゲリラ組織「チュシ・ガンドゥク」に加わり、大規模な反乱が発生した。同年、リタン、デルゲ、カンゼ、ニャロン、ポなど各地でも反乱が発生し、その兵力は6万にもなった。 他方、当時のチベットにはバタン、リタン、カンゼ、デルゲに中国人民解放軍の駐屯地が設置されていた。チベットのカンパ(=カムの人の意)たちは駐屯地を接続する交通路に対して継続的な攻撃を加え、兵站路を破壊するなど攻撃をした。ゴロク族の部隊は中国人民解放軍の3個連隊を殲滅したともされ、一時的には、中央チベットに繋がる道路は中華人民共和国西部からアクサイチン砂漠を越える一本だけになったともいわれる[要文献特定詳細情報]。それに対して中共軍は、兵4万、民兵6万の戦力で東チベットの平定に当たった。チベット平定は毛沢東による指示であったといわれる。 リタン リタン(北緯29度52分29秒 東経101度19分06秒 / 北緯29.874588度 東経101.318321度 / 29.874588; 101.318321) リタン住民は僧院に篭城し、ゲリラ戦を展開した。人民解放軍は爆撃の前に降伏を勧め、リタン住民は降伏するとしてユンリ・ポンポを人民解放軍に送り込んだ。ところがユンリ・ポンポは隙を見て人民解放軍の司令官を射殺、人民解放軍はリタンに爆撃を開始した。爆撃により、リタンの僧院は壊滅し、少なくとも3千人から5千人が死亡したとされる。以後、中共軍によって、続いてバタン、チャムド、デルゲも占領されていく。 ニャロン ニャロン(北緯31度26分00秒 東経100度37分08秒 / 北緯31.433204度 東経100.618973度 / 31.433204; 100.618973) ニャロン(康定の北西200km)では、ドルジェ・ユドンという若い女が主体となって人民解放軍と対峙し、中国兵600のうち400を殺害した。人民解放軍は兵2万を投入したためニャロンのチベット人はゲリラ戦を展開した。この戦闘で、人民解放軍は2千の損害を被った。中国は東チベットに大きな影響力を持つカルマパ16世に仲介をさせて一時休戦となったが、結局はまた反乱となった。 1956年から58年の間に人民解放軍は4万の兵を失ったとされる。その報復もあってか、人民解放軍兵士によりチベット人の若い女の多数が強姦され、男は断種された。また、何千という公開処刑が残酷な方法で行われ、生きながら焼き殺された者もあった。僧や尼にも侮辱が加えられた, 。 チベット亡命政府によれば、1952年-1958年における「カンロ地区」(中国の区分で甘粛省甘南州)においてチベット人10,000人が虐殺された(カンロの虐殺)。 中国共産党側の資料では、1956年末、中国の区分で四川省に所属する涼山、美姑、西昌、康定、西蔵所属で当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康らによる第1次蜂起が起き、中国軍は1957末に「平定」に成功。さらに反乱勢力10万人に人民解放軍6万を動員して「鎮圧」する。中国共産党発表によれば、20,000人を殲滅し、20,000人を逮捕した。 1957年にはチベット全土に展開する人民解放軍は20万にのぼり、うち15万が東チベットに配置された。なお人民解放軍の中にはチベット側に寝返る者もいた。 1957年から58年にかけて、バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」した。
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