オットハインリヒ館
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「ハイデルベルク城」の記事における「オットハインリヒ館」の解説
オットハインリヒ館(Ottoheinrichsbau)はプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒにちなんで名付けられた。初代建設責任者はハンス・エンゲルハルト、少なくとも一部はペーター・フレトナーによる。2代目の建設責任者はカスパー・フィッシャーである。 オットー・ハインリヒは1557年にプファルツ選帝侯領にプロテスタントの信仰をもたらし、学問を奨励し、新人医師に死体を解剖することを義務づけた。彼の図書館(Bibliotheca Palatina)は、この当時の最も重要なものの一つであるが、浪費のかさむ生活態度により彼は破産の危機に瀕していた。一方、祖母ヘドヴィヒの遺産にも借用書があった。ポーランド王カジミェシュ4世が娘ヘドヴィヒ(ヤドヴィガ)とバイエルン=ランツフート公ゲオルクとの結婚の際に作成した32,000グルデン以上の借用書である。この借金はポーランド王室から返済されていなかった。オットー・ハインリヒは利子に利子を加え、その総額を20万グルデンと算出し、1536年に大叔父にあたるポーランド王ジグムント1世のクラクフへ支払いを要求した。3週間にわたる交渉の末、借金は支払うが、利子の支払いは免除することで決着した。オットー・ハインリヒの統治期間はわずか3年であったが、最も重要なプファルツ選帝侯の一人である。彼にちなんでオットハインリヒ館と名付けられたこの城館建築はドイツのルネサンス建築の最も傑出した作例の一つである。 オットハインリヒ館は、1556年にプファルツ選帝侯となったオットー・ハインリヒによって建設された。この新しい宮殿はドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築であり、ドイツ・マニエリスムの重要な建築作品である。古い建物はオットハインリヒ館に一部は取り込まれ(グレゼルナー・ザール棟)、あるいは取り壊された(ルートヴィヒ館の北半分)。東部では古い建物や外側の防壁の基礎構造に基づいて建設されている。 5階建てのこの建物のファサードは、選帝侯の統治理念を象徴する16体のアレゴリー像で飾られている。これらの像は、後にハプスブルク家のために仕事をすることになるオランダのアレクサンダー・コリンによって創られたものである。オットー・ハインリヒが1559年に亡くなった時点で建設はまだ完了していなかった。三十年戦争前のオットハインリヒ館には、本質的には初期ルネサンス様式によるイタリア風の外観に不調和な2つの巨大な二重破風があったことが、初期の写生画(マテウス・メーリアンの„Kurpfälzisches Skizzenbuch“)に示されている。これは明らかに選帝侯フリードリヒ3世が引き起こした設計変更に由来するものであり、元々の建築プランが意図していたものではない。三十年戦争後にオットハインリヒ館は新たに屋根がふき直され、巨大な二重破風は撤去された。 オットハインリヒ館のファサードの彫像プログラム 16体の立像(玄関の4体を除く)はアレゴリー像と旧約聖書や神話の人物像である。神話の像が飾られていたために18世紀までオットハインリヒ館は「異教徒の館」と呼ばれていた。 1階: 政治力と軍事力を象徴する神話の英雄(ヨシュア、サムソン、ヘーラクレース、ダビデ)とローマ皇帝。窓の三角破風には有名なローマの肖像が見える。 2階: キリスト教の支配者としての美徳(強さ、信仰、愛、希望、正義) 3階: 5つの惑星(土星、火星、金星、水星、木星)および太陽と月の擬人化 1階の4つの立像はゴシック体で書かれた不器用な詩で説明がなされている。 ハイデルベルクの考古学者 K. B. シュタルクは、これらの彫像プログラムの意味を次のように記している。 この宮殿のファサードの彫像は選帝侯の統治理念を反映したものである。選帝侯の権力は、神話の神に象徴される個人の力の上に成り立っている。キリスト教徒の力を高める徳目の中心は強さと正義である。しかし、これらすべては天体の運行が知らせる天意の影響下にある。— K. B. シュタルク
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