ルートヴィヒ館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 16:40 UTC 版)
ルートヴィヒ館(Ludwigsbau)は、選帝侯ルートヴィヒ5世にちなんで名付けられた。ルートヴィヒ5世はランツフート継承戦争後の難局を乗り切り、プファルツ選帝侯の権利を回復することに成功した。この過程で、彼はバイエルンの同族と和解している。また、弟のフリードリヒを介してハプスブルク家との友好的接触を行った。1518年に帝国アハト刑が公式に解除され、プファルツ選帝侯の特権を回復した。1519年の皇帝選挙では買収されハプスブルク家のカール5世に投票した。1523年、ルートヴィヒはフランツ・フォン・ジッキンゲンが率いる騎士の叛乱を鎮圧した。ドイツ農民戦争の際には、隷農制廃止の要求を掲げる農民を交渉しようと試みた。しかしその後、暴動が制御不能なまでに拡大したため、農民鎮圧に加わった。ルートヴィヒ5世はハイデルベルク城にとって築城家として重要である。特に重要なのは、西壁やディッケン塔の建設といった防衛機能の拡充であるが、その一方でそれ以外の宮廷の建物を改築してもいる。 ルートヴィヒ館は1524年にルートヴィヒ5世によって建設され、居館として用いられた。彼は古い建築を取り壊し、その壁の一部をルートヴィヒ館に転用した。南壁に取りつけられたゴシック様式の段状破風は現存しない。 元々彼はルートヴィヒ館をシンメトリックな建築として造営された。ルートヴィヒ館は元々北側に広がっており階段室はその中央前面に位置していたのである。しかし選帝侯オットハインリヒが、オットハインリヒ館を建設するためにルートヴィヒ館の階段室から北側部分を取り壊したのである。その後、ルートヴィヒ館は1764年に火災により焼失した。 外側の紋章の下に、綱引きをする2匹の猿が掲げられている。これはルートヴィヒ館の上階に住む貴族の子供たちの力比べを揶揄するものであるとされる。
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