ルート制覇の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 08:16 UTC 版)
1986年にアメリカ人のマグス・スタンプが挑戦したが、低斜面での雪崩により阻止された。1988年に彼は再び挑んだが、長い雪嵐に打ち負かされた。 1993年、ポール・プリチャード、ジョニー・ドーズ、ノエル・クレーン、デイブ・ケンダル、フィリップ・ロイドの英国チームが重大な挑戦を行った。このとき、ドーズが登山ブーツを紛失、その後に大きく滑落するトラブルが発生し失敗に終わった。 1990年代にも、さらに失敗は続いた、この中には米国有数の高山登山者の一人であるスコット・バックスが含まれる。1997年、ニック・ブロック、ジュール・カートライト、ジェイミー・フィッシャーは、6,100mまでの高さの登攀を達成した。 ピート・タケダとデイブ・シェルドンは、1998年、1999年、2001年と3回試みたが、すべて失敗した。 2001年、ロシアのヴァレリー・ババノフは、ルート下部の5,800mまで登攀した。さらに、彼は別のルートを経由して、中央峰に登頂したが、同年に そのルートは「シャングリラ(Shangri-La)」として知られるようになった。メルー中央峰が、ルートにかかわらず、登頂されたのはこれが初めてであった。 2003年、アメリカ人のコンラッド・アンカー、ダグ・シャボット、ブルース・ミラーが壁の下部まで登攀した後、ルートをそれて氷壁の溝に変更しようとするも、最終的に引き返した。 2004年、日本の遠征は、事故によりチームメンバーの1人が負傷したため、失敗した。同じチームが2006年に再び試みたが、登頂するためにシャークス・フィン・ルートを回避した。 2006年10月、チェコの登山家マレック・ホレセクとヤン・クライシンガーはこのシャークス・フィン・ルートを試みたが、登頂を成功させるため、より簡単なルートを選び、尾根を途中で離れた。 2008年には、チームのコンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークは、頂上まであと2ピッチ(150m)以内にまで迫ったが、引き返さざるを得なかった。彼らは激しい嵐に遭い、ポータレッジ(崖に吊るすテント)で4日間足止めされ、食料を使い果たした。 2009年、スロベニア人シルボ・カロ 、マルコ・ルキッチ、アンドレイ・グルモフセクは、岩壁の根元で方向転換し、ルート挑戦に失敗した、不十分なギア、順応性の低さ、アルパインスタイルのアプローチが要因であった。 初めての成功は、コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークにより、2011年10月に達成された、このメンバーは、さきの2008年に登頂にあと少しまで迫ったチームと同じである。レナン・オズタークは、スキー事故で深刻な脊椎と頭蓋骨の負傷を負ったが、そのわずか5か月後にこの登頂をおこなった 。彼らは、ポータレッジの破損、オズタークのケガの後遺症である「軽度の発作」といったトラブルを克服した、成功の主な要因として天気に恵まれたことが挙げられる、ギネス世界記録でもメルー中央峰のシャークス・フィン・ルートにおける最初の登頂と認められた。彼らは8日目に山頂に到着し 、それから下山に3日かかった。 2015年、長編ドキュメンタリー映画『MERU/メルー』が公開された、コンラッド・アンカーのチームによる2008年と2011年の2つの挑戦が記録されている。それは、元々あとに残すために、ジミー・チン、レナン・オズタークが撮影した映像を含んでいる。
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