ルートヴィヒ敬虔帝の治世と内乱(814年 – 843年)
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「カロリング帝国」の記事における「ルートヴィヒ敬虔帝の治世と内乱(814年 – 843年)」の解説
ルートヴィヒ1世は不安定な帝国の運営に苦しんだ。817年、ルートヴィヒ1世は息子の3人を新たな皇帝とした。長男ロタール(1世)はイタリア王と共同皇帝、ピピン1世はアクィタニア王と副帝、ルートヴィヒ(2世)はバイエルン王と副帝の地位を得た。しかしルートヴィヒ1世は既に814年にベルナルドへもイタリア王の称号を認めていたため、ベルナルドはロタールのイタリア王即位を不満として反乱を起こした。ベルナルドは捕らえられ、眼を抉られる刑を受け、その傷がもとで818年に牢死した。これを後悔したルートヴィヒ1世は、822年にアティニーの宮殿で教皇パスカリス1世らを前に懺悔を行った。この出来事は貴族たちに対する皇帝の権威を自ら著しく損なうものだった。 823年に後妻ユーディトとの間にカール(シャルル、2世)が生まれると、ルートヴィヒ1世は前妻との息子たちの領土を削りシャルルに与えようとしたため、ロタールらは反発し内乱が勃発した。830年、ロタール1世はピピン1世やルートヴィヒ2世とともに父ルートヴィヒ1世を攻撃して廃位したが、翌年に彼の強大化を恐れた弟たちがルートヴィヒ1世の側につき、ロタール1世は敗れた。しかしその翌832年、ピピン1世とルートヴィヒ2世は再び父帝と対立して反乱を起こし、833年にはロタール1世もこれに加わり父帝を再廃位し、シャルル2世とともに投獄した。835年、カロリング家内で和平が結ばれ、ルートヴィヒ1世は帝位を取り戻した。838年、ピピン1世が死去した。ルートヴィヒ1世はシャルル2世をアクィタニア王としたが、アクィタニア貴族はピピン1世の子ピピン2世を擁立した。このシャルル2世とピピン2世の対立は、864年のピトル勅令まで続いた。 最終的に、ロタール1世とピピン2世の連合に対するルートヴィヒ2世とシャルル2世の連合という構図となり、両陣営は841年のフォントノワの戦いで激突した。敗れたロタール1世は首都のアーヘンに逃れ兵を集めたが、弟たちの連合軍に敵うものではなかった。842年のストラスブールの誓いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世が皇帝に不適格であると宣言した。ここにルートヴィヒ2世の東フランク王国とシャルル2世の西フランク王国の、カロリング帝国からの分裂が決定的となった。後のヴェルダン条約と合わせて、この古高ドイツ語、ロマンス語で書かれ宣言されたストラスブールの誓いはドイツとフランスの原点として歴史上の重要な岐路であったと評価されている。843年、ルートヴィヒ1世の3人の息子達はヴェルダン条約を結び、抗争に一旦の終止符を打った。
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