ゆっくりとした崩壊とロマン派の興奮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 16:40 UTC 版)
「ハイデルベルク城」の記事における「ゆっくりとした崩壊とロマン派の興奮」の解説
1777年、バイエルン選帝侯位も継いだカール・テオドールは宮廷をマンハイムからミュンヘンに移した。これによりハイデルベルク城はますます視界から遠ざかった。屋根に覆われた部分は手工業者らに利用されるようになっていた。1767年にはすでに、南防塁の角石がシュヴェツィンゲン城(ドイツ語版)の建築資材として運び出され始めた。1784年にはオットハインリヒ館1階のヴォールトが剥き出しとなり、城は石切場になり果てた。 1803年の帝国代表者会議主要決議によってハイデルベルクとマンハイムはバーデン領となった。カール・フリードリヒ大公は支配地域の大きな拡大を歓迎したが、ハイデルベルク城はありがたみのない添え物に過ぎなかった。建物は崩壊し、ハイデルベルク市民は自分の家のための石材、木材、鉄材を城に取りに行っており、彫刻や飾りもなくなっていた。アウグスト・フォン・コツェブーは1803年に、城趾を整地しようとするバーデン政府の計画に対し憤慨の意を述べている。この破壊された城は、19世紀の初めにはナポレオンの圧政に対する愛国心のシンボルとなっていった。 1800年以前に画家やデザイナーらはすでに、この街の城址と山あいの川が織りなすアンサンブルを知っていた。その頂点をなすのが、イギリスの画家ウィリアム・ターナーである。彼は1817年から1844年の間に何度もハイデルベルクに滞在し、ハイデルベルクとその城を描いた作品を何点か制作した。彼やその他のロマン派の画家達の作品は、細部に忠実な建築描写を行ったものではない。絵は城を幾重にも美化された建築として描き出したのである。 この城の救い主はフランス人のシャルル・ド・グライムベルクであった。彼は、ハイデルベルク城を「悪趣味な崩れ落ちそうな装飾が施された何重もの古くさい壁」と見なすバーデン政府に対して城趾の維持を主張して戦った。彼は1822年まで自主的に城の監視委員会を運営し、長らく城の中庭を望むことのできるガラス張りのホールのバルコニーで暮らした。ドイツで文化財保護が始まるずっと前に、城の保存と資料整備を彼が初めて訴え、誰も想像しなかったロマン主義の熱狂により崩壊を阻止したのであった。グライムベルクの依頼によりトーマスA.レーガーが初代城趾総裁となった。グライムベルクは城趾の図版を作成し、城趾の知名度を高めて観光客をハイデルベルクに導いた。
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