「フィッシュ=イン抗議」の決行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/11 14:11 UTC 版)
「ジャネット・マクラウド」の記事における「「フィッシュ=イン抗議」の決行」の解説
1964年3月、ジャネットら「アメリカインディアンの生き残りのための協会」や「NIYC」、インディアン運動家たちは最大の抗議行動「フィッシュ=イン」をワシントン州で一斉決行する。この抗議には、白人俳優マーロン・ブランドや黒人コメディアンディック・グレゴリーといったインディアン支援者も応援参加している。ブラック・パンサー党もワシントン州連邦議会議事堂前での抗議デモに加わっている。この「フィッシュ=イン」は、徹底的な連邦と州による弾圧を受けた。インディアン抗議者らは州警官らによって暴行され逮捕された。そしてそれは全米に報道され、その後10年にもわたる一大抗議運動の幕開けとなった。 夫ドンが抗議運動で初の逮捕を受け収監されている間に、ジャネットはイェルムの自宅の窓際で幻視(ヴィジョン)を得たと語っている。 私は、私に「恐れないように」と語りかけてくる声を聞きました。 それは、クレイジーホースの声に聞こえました。その声は、私が一人ではなく、守られているのだと言いました。その力強い声のおかげで、すべての恐れと悲しみが遠のいていきました。それは私が、敵対する観衆とすべての逆境に直面する力を得たときでした。 この時のことを、ジャネットの息子の妻であるジョイスはこう語っている。「彼女は、白人の宗教に頼ることができませんでした。それは、彼女を傷つけていました。彼女が幻視を見た時、彼女はレーニア山を見渡していたんです。そして、彼女は偉大な酋長たちの顔を見たのです。」 1965年10月13日、ニスクオリー族のビリー・フランクJrらが、一艘の舟で「フランクの投網抗議」と呼ばれる「フィッシュ=イン」を決行。この舟にはジャネットの夫ドンと、彼女の二人の息子も同乗していた。ワシントン州はこの抗議に対して、300人の州の漁猟監視官と市警察官を動員。この舟をパワーボート3隻で襲い、衝突させて転覆させた。抗議船にはジャネットの10歳に満たない息子ジェフも乗っており、全員が川に投げ落とされた。ジェフはまだ泳げなかった。 川岸には、「フィッシュ=イン」抗議のために、現地のインディアン部族から大勢の女・子供がキャンプを張っていた。漁猟監視官とタコマ市警察官は彼らをも襲い、抗議者に暴行を加え逮捕した。この「フランクの投網抗議」で、フランク、ジャネット夫妻ら6人のインディアン抗議者が逮捕拘留された。 ジャネットは獄中で6日間のハンガーストライキを行っている。ジャネットはこのときの様子をこう語っている。「私は義妹のエディスに、『私たちも食べてないのよ』と言われるまでは、この投獄をあまり気にしてませんでした。私が最初にハンストを始めてから、みんなが6日間何も食べなかったんです。彼らはライマメ添えのハムとかポテトフライとか、私が大好きなものを持ってきました。」ジャネットは好物の匂いを嗅ぎながら、6日間耐えた。 この年、ワシントン州のマクニール島州立刑務所で、インディアン囚人のための文化的な更生計画を企画。この取り組みは合衆国下の刑務所での、インディアン囚人の相互組合「アメリカインディアン友愛協会」(Brotherhood of American Indians)のモデルケースとなった。 ジャネットは60年代後半に、ホピ族のトーマス・バニヤキヤやイロコイ連邦と交流し、彼らの思想を自身の運動に採り入れている。この時期、ジャネットは命名の儀式を受けて、「イェトシブルー」(「心を打ち明ける女」)というインディアン名を授かった。また「アメリカインディアン運動」(AIM)を支援し、そのメンバーを家族同様に迎えた。「AIM」が1972年に「破られた条約のための行進」、1973年に「ウーンデッド・ニー占拠抗議」を決行した際には部族を挙げて支援。デニス・バンクス、ラッセル・ミーンズらはこの時期に、イェルムのジャネットの許で「スウェット・ロッジ」の儀式を行っている。 ジャネットの息子のマックはこう語っている。「ジャネットは男たちを正しい方向に立ち上がらせようとしたただ一人の女性でした。ひところ、人々は、助けを求めてここに来ました。私たちは、このあたりで電話とスウェット・ロッジを持っていた唯一のインディアンだったんです。お母さんはお金のためには決して動きませんでした。それが、みんなが彼女を尊敬したがっていた理由です。 」 1974年2月12日、10年にわたる「フィッシュ=イン」抗議と連邦訴訟が結審。米国地区判事ジョージ・ボルトは1854年の「メディスン・クリーク条約」を結んだ14部族に賛同し、ワシントン州のサケ・マスの年間漁獲高のうち、インディアンたちがその半分を得る権利を認めるという、歴史的な「ボルト判決」を下し、インディアン側の大勝利となった。 この年、ワシントン州スノクアルミー滝で開かれた、イロコイ連邦の呪い師たちによる「平和の白い根」の初めての霊的な統一集会を援助し、続いて「長老たちの輪」の組織作りを手伝い、以後、この集会は毎年夏に継続して開かれている。またインディアン女性の、伝統的な価値に基づいたリーダーシップ技術の習得を援助するため「北西インディアン女性の輪」を設立。 また「先住アメリカ人権利基金」(NARF)に加わり、40人のチームによる、「インディアン法的補償システム」の開発メンバーを務めた。 同年、ローレライ・デコラ・ミーンズ、マドンナ・サンダーホーク、フィリス・ヤング、ウィノナ・ラデュークら「AIM」の女性メンバー、及び全米の部族から集まった300人のインディアン女性たちとともに、サウスダコタ州ラピッドシティで、インディアン初の女性権利団体「すべての赤い国の女たち」(WARN)を結成する。ジャネットは「WARN」の特使として各国を歴訪し、先住民女性の権利問題についての講演を行う。また「全米更生と健康管理の会議」の代表を勤め、全米の刑務所に、インディアン囚人が監獄で部族の伝統儀式を行えるよう主張した。
※この「「フィッシュ=イン抗議」の決行」の解説は、「ジャネット・マクラウド」の解説の一部です。
「「フィッシュ=イン抗議」の決行」を含む「ジャネット・マクラウド」の記事については、「ジャネット・マクラウド」の概要を参照ください。
- 「フィッシュ=イン抗議」の決行のページへのリンク