「フィッシュ=イン抗議」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 06:10 UTC 版)
「全米インディアン若者会議」の記事における「「フィッシュ=イン抗議」」の解説
1964年春、「NIYC」は最大の抗議行動「フィッシュ=イン」を全米一斉決行する。これは州政府によって、狩猟や漁猟を生業とするインディアン部族が、条約で保証されたこれらの権利を州政府に規制され、生活のために狩りや釣りをすることが密猟となり逮捕対象となったことに対する抗議行動だった。 鮭を主食とするコロンビア川流域のマックルシュート族、ピュヤラップ族、ニスクォーリー族などワシントン州北西部のインディアン部族は、1800年代に「エリオット岬条約」と「メディシン・クリーク条約」で漁業権を条約保証されていたが、州政府は第二次大戦後の環境悪化を理由に「魚や動物を保護する」として「釣りと狩猟法」を制定し、インディアン部族にもこれを強要し始めた。インディアンたちは「我々の狩りや釣りは生活のためであって、白人のスポーツとは別物だ」としてこれに抗議したが、ワシントン州の「スポーツマン会議」は白人の漁師に味方して、保護運動を支持した。 インディアンによるワシントン州における州法破りの釣り抗議での最初の逮捕者は、ピュヤラップ族のボブ・サタイアクムだった。彼は1949年と1954年に、州法に逆らって漁猟を行い、州政府に「密猟罪」で逮捕された。この抗議行動はその是非を巡って、ワシントン州最高裁判所に持ち込まれたが結局打ち切られ、暗に州政府にインディアン部族の漁業管轄権があると示されることで、連邦条約と対立するこの裁定にめぐるインディアン部族とワシントン州の争いはさらに続くこととなった。 1964年2月、ピュヤラップ族の代表たちが「アメリカインディアン国民会議」(NCAI)と「NIYC」のメンバーに協力を求め、二大インディアン団体はこれを快諾した。白人たちがすでに当時全米に広がっていた黒人の公民権運動とこのインディアンたちの動きが結びつくと恐れ、警戒を強めるなか、メル・トムはこのインディアンの漁猟権を巡る抗議について、「これは、インディアンの条約の問題であって、公民権の問題ではない」と表明を行っている。 ワシントン州の部族の漁猟権確認抗議の動きは、フロリダのセミノール族、ネブラスカ州のウィンネバーゴ族、モンタナ州のブラックフット族、ワイオミング州のショーショーニー族、南北ダコタ州のスー族など、数多くのインディアン部族の支持を集めた。抗議の方法はハンク・アダムスの提案によって、ワシントン州ピュアラップ川で、インディアンたちが「州法に違反」して「一斉に釣りをする」(フィッシュ=イン)ことと決定した。これは当時南部の若い黒人たちが行った抗議行動の「シット=イン」(一斉に座り込む)から採ったものだった。 1964年3月2日、ワシントン州ピュヤラップ川で、「NIYC」とインディアン参加者たちによって「 フィッシュ=イン抗議」が決行された。ボブ・サタイアクムやハンク・アダムス、AIMと交友の深い白人俳優のマーロン・ブランドや黒人コメディアンディック・グレゴリー、サンフランシスコ米国聖公会司教のジョン・ヤーヤンらも「フィッシュ=イン抗議」抗議に参加して逮捕された。 翌日の3月3日に、「NIYC」はワシントン州オリンピアで抗議の大集会を開いた。5千人の参加者が集まり、相互部族間最大級の抗議が行われた。ワシントン州議事堂の階段で伝統的な踊りが舞われ、演説がぶたれ、州知事の大邸宅の前で、1集団が出陣の踊りを踊った。クライド・ウォリアーは、「フィッシュ=イン抗議」が「アメリカインディアンの歴史の中で、新しい時代の幕開けだ」と宣言した。この第一回「フィッシュ=イン抗議」では州議会を動かせなかったが、参加した45以上のインディアン部族と「NIYC」のメンバーの多くは、この「フィッシュ=イン抗議」が「現代におけるインディアンの最大勝利である」と考えた。 「フィッシュ=イン抗議」はその後も続けられ、その結果、1974年に米国最高裁判所は「ボルト判決」を下し、インディアン部族はその条約規定によって、ワシントン州で穫れる魚のうち、その50%を捕る権利があると命じた。
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