諏訪氏 諏訪氏の概要

諏訪氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 16:58 UTC 版)

諏訪氏
諏訪梶葉すわかじのは
本姓 神氏
金刺部氏または大神氏?
桓武天皇後胤?
清和源氏満快流?
家祖 建御名方神
有員
種別 社家
武家
華族子爵
出身地 信濃国諏訪郡
主な根拠地 信濃国諏訪郡
東京市中野区
著名な人物 諏訪頼重 (南北朝時代)
諏訪頼重 (戦国時代)
諏訪勝頼
諏訪頼水
諏訪御料人
支流、分家 高遠氏(武家)
保科氏(武家)
諏方氏(社家 → 絶家)
藤沢氏(武家)
千野氏(武家)
今井氏(武家)
小坂氏(武家)
信濃桃井氏(武家)
諏訪頼蔭家(武家)
諏訪頼久家(武家)
諏訪盛條家(武家)
諏訪頼常家(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

中世以降の通字は「」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「」(ただ)を通字としている。

概説

神氏(諏訪氏)は代々、諏訪大社上社の大祝を務めてきた一族である。出自については諸説あり、大神氏の同族または金刺氏の支流とも考えられている(詳細は後述)。

家伝では諏訪大社の祭神・建御名方神(諏訪明神)あるいはその神に選定された童男に始まるという。後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏源満快を祖とするとも称したが、皇胤摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で祭神の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。

諏訪氏は武士神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏執権北条氏御内人南朝方の武将足利将軍家奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、大祝としては信濃国および諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。故に諏訪大社の祭神の系譜を称し、上社最高の神職である大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪明神の神体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。

宗旨は曹洞宗菩提寺温泉寺長野県諏訪市)、宗湖寺(茅野市)、頼岳寺(茅野市)、吉祥寺東京都文京区)など。

出自

狩装束姿の諏訪明神

上社大祝を務めた諏訪氏(神氏)の由来については、共に大国主神の後裔とされる三輪氏の同族とする説と、欽明朝推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動を行なった有員(ありかず)の末裔であるとする説がある。 仮に大国主神の後裔とする場合、父母が素戔嗚尊奇稲田姫、祖父母が伊邪那美尊伊弉冉尊であり天照大神の遠戚である可能性が高い。また金刺氏としても、始祖が神八井耳命であり、その父母は神武天皇及び比売多多良伊須気余理比売であるためやはり遠戚である可能性が高い。

中世の伝承によると、諏訪明神(建御名方神)が8歳の童男に御衣を着せて自分の「御正体」(いわば身代わり・依り代)として神格化させた[2]。『諏方大明神画詞』(1356年)と『神氏系図(前田氏本)』(室町時代初期)によると、この男児は有員という名の人物である。

祝(はふり)は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。 これ則ち(みそぎはふり)有員、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。[3][4]

有員は桓武平城朝9世紀初頭)に生きたと言われていることから[注釈 1]、桓武天皇の皇子とする伝承もあるが、史実性は疑わしい。


三輪山奈良県桜井市

有員を祖とする説以外にも、大神氏(三輪氏)を出自とする説もある[5]。松本市や塩尻市柴宮で、大神氏に関係する部族がいたと思われる三河遠江国に見られる三遠式銅鐸の出土があり[6]天竜川経由での人の移動があったことを示唆する。「祝(ほうり)」という神官の呼称や「ミワ」という氏族名を持ち、本殿を持たない神社、蛇信仰の存在等といった大神氏や三輪山大物主神)信仰との共通点も指摘されている[7][8]。実際には1865年元治2年)の『諏訪神社祈祷所再建趣意書』には当時の大祝の諏訪頼武が「諏方大祝大三輪阿曽美頼武」と名乗っていた[9][10]

時期については諸説あるものの、いずれにせよ神氏となる氏族は下伊那地方から諏訪に進入してきたと考えられている。古墳時代後期(6世紀)に入ると下伊那には多くの前方後円墳が建てられ、これらには馬関連の副葬品が多い。6世紀後半に諏訪地方に出現して在地型の周溝墓(いわゆるフネ古墳古墳)に取って代わる古墳からも馬具の出土が多いため、伊那谷から諏訪への馬飼集団の移動があったと推測される。この移動した部族を金刺氏とする説はあるが[11]、伊那谷の古墳は一つの様式で占められず、いろんな種類があることから、そこには一つの氏族ではなく、むしろ文化の異なるいくつかの集団(畿内豪族とそれに結び付いた在地勢力)がいたと考えられる。この中には神氏がいた可能性がある。

諏訪大社上社前宮(茅野市)

日本書紀』から持統朝7世紀後半)には既に諏訪の神が朝廷から篤い崇敬を受けていたことがうかがえるのに対して、多くの記録が神氏の始祖の有員が9世紀の人物としているという問題がある。大祝職が実は用明朝に始まったとする『神氏系図(前田氏本)』の記述を受け入れる説[12]のほか[注釈 2]、上社の大祝となる童男は元々特定の一族ではなくダライ・ラマのように上社周辺の氏族から選ばれていたが、平城朝に上社が下社の金刺氏に(なら)って世襲制に替わったという大和岩雄1990年(平成2年))の説がある[14]

諏訪地方では、建御名方神が土着の洩矢神を打ち負かして、洩矢神が勝利者に統治権を譲ったという伝承があるが、これは在地豪族守矢氏が外来の神氏に降伏して祭政権の交代が行われた出来事に基づいていると推定される[15][16]。その際に守矢氏の拠点地だった上社前宮の周辺が大祝に譲られたという可能性も考えられる[17]

偽りの系図・『阿蘇氏略系図』・『神氏系図(大祝家本)』

歴史学者の田中卓1956年昭和31年)に発見した『阿蘇氏略系図(異本阿蘇氏系図)』と1884年明治17年)に見つかった『神氏系図(大祝家本)』には、科野国造(祖父•神八井耳命)家出身の(くまこ)[注釈 3]、または(おとえい、おとかひ)という人が用明天皇2年(587年)に諏訪湖の南に社壇を設けて初代大祝となったとあり、有員がその子孫とされている[18][19]

『阿蘇氏略系図』と『大祝家本神氏系図』をもとに金井典美ら[20]は神氏を金刺氏の分家とする説を唱え、これが一時期主流説となった[注釈 4]。しかし、1990年代後半に入るとこれに対する反論が出て、そのうえ両系図を偽書とする見方[22][23][24]が出たのである[25][26]

寺田鎮子・鷲尾徹太(2010年平成22年))はこの説に対して

  • 国造という政治的支配者の金刺氏が「下社」という一見従属的な位置にあると思われる社壇の大祝となっていること
  • 上社には「神氏と守矢氏の二重体制」という複雑な仕組みがあること
  • 本家であるはずの金刺氏が務めている下社が神階昇進においてしばしば上社の後を追っていること
  • 上社と下社の信仰内容が異なること(上社はミシャグジ信仰と狩猟を中心とし、下社は水霊信仰と稲作を中心とする)

を指摘して、「こうした要素を無視して、一つの「系図」によって「金刺氏創祀」説を唱えることは、非常に疑問を覚えざるを得ない」という批判の声を上げている[27]

また、『阿蘇氏略系図』と『大祝家本神氏系図』を発見した田中卓自身も、「これら諸氏の系譜の結合によって構成された広範囲にわたる同族的系譜関係は、もちろんこれを受け止めることはできない」、「それだけでなくその結合に用いた一々の氏族の系図の記載も、やはりそこに記載してあるというだけでは、これを軽々に信用するわけにはいかない」と述べ、これを否定している[28]

村崎真智子は、『阿蘇氏略系図』と『大祝家本神氏系図』は江戸時代末期から明治初期までに、飯田武郷が文案を作り、中田憲信が系図としたことを想定しており、信憑性に疑問を抱いている[28]

佐藤雄一も、以上の田中や村崎の研究から、「その記載と事実との関係に慎重な態度を取るべきであり、現段階では本系図を元にした考察を行うことは難しい」と述べている[28]

間枝遼太郎は、『阿蘇氏略系図』が

に影響を受けて成立していると明らかにした[29]

以上のように、現在の学界では『阿蘇氏略系図』と『大祝家本神氏系図』を否定する学者が多く、「これらの系図が古代の歴史的事実を反映するものではなく(後略)」、「古代の歴史的事実を明らかにする力は持たない」と証明されている[30]


注釈

  1. ^ 『前田氏本神氏系図』のように用明天皇の時代の人物とする文献もある。
  2. ^ ただし「用明天皇2年」は丁未の乱が勃発した年でもあるため、中世に広く流布していた聖徳太子伝説に由来するという可能性もある[13]
  3. ^ 「熊子」「熊古」とも表記される。
  4. ^ ただし「神氏は金刺氏分家」という立場はあくまで金井らの論であり、『阿蘇氏系図』から直接出てくるものではない[21]
  5. ^ 神宝は現在上社本宮の宝物殿に収蔵されている。
  6. ^ 旧諏訪藩は現米1万6070石(表高3万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[67]
  7. ^ 『神氏系図』には記録されていないが、ここで追加しておく。
  8. ^ 旗本・内藤信有の3男。
  9. ^ 越後新発田藩主溝口直溥の14男。

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『諏訪氏』 - コトバンク
  2. ^ 諏訪市史, p. 717.
  3. ^ 塙保己一編「続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年大正14年)、494 - 539頁。
  4. ^ 金井 1982, pp. 218–277, 「「諏訪大明神絵詞」梵舜本と権祝本の異同対照」.
  5. ^ 宮坂光昭 著「古墳の変遷からみた古氏族の動向」、古部族研究会 編『古諏訪の祭祀と氏族』人間社〈日本原初考 2〉、2017年、87頁。 
  6. ^ 柴宮銅鐸”. 公益財団法人 八十二文化財団. 2019年1月30日閲覧。
  7. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, pp. 134–138.
  8. ^ 谷川健一『蛇: 不死と再生の民俗』冨山房インターナショナル、2012年、27-29頁。 
  9. ^ 谷川健一『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』白水社、1987年、136頁。 
  10. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, p. 227.
  11. ^ 諏訪市史, pp. 692–694.
  12. ^ 諏訪市史, pp. 711–713.
  13. ^ 原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社2018年(平成30年)、81頁。
  14. ^ 大和岩雄「建御名方命と多氏」『信濃古代史考』名著出版、1990年、220-221頁。 
  15. ^ 宮坂光昭 著「古墳の変遷から見た古氏族の動向」、古部族研究会 編『古諏訪の祭祀と氏族』人間社〈日本原初考 2〉、2017年、77頁。 
  16. ^ 諏訪市史, pp. 686–691, 「第二節 諏訪神社上社・下社」.
  17. ^ 諏訪市史, pp. 726–727, 「第四節 上社大祝と五官祝」.
  18. ^ 諏訪市史, pp. 711–712.
  19. ^ 金井典美 著「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」、古代部族研究会 編『諏訪信仰の発生と展開』人間社〈日本原初考 3〉、2018年、38-47頁。 
  20. ^ 金井 1982, pp. 103–114, 「諏訪神社神官考」.
  21. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, p. 210.
  22. ^ 伊藤麟太朗「所謂『阿蘇氏系図』について」『信濃』第46巻第8号、信濃史学会、1994年、696-697頁。 
  23. ^ 村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」『ヒト・モノ・コトバの人類学 国分直一博士米寿記念論文集』1996年平成8年)、202 - 218頁。
  24. ^ 福島正樹 (2003年11月24日). “信濃古代の通史叙述をめぐって”. 2019年1月30日閲覧。
  25. ^ 井原今朝男「神社史料の諸問題 : 諏訪神社関係史料を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148号、2008年、260-262頁。 
  26. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, pp. 22–24.
  27. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, pp. 23–24.
  28. ^ a b c 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(2021年、吉川弘文館)
  29. ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」『国語国文研究』161号(北海道大学国文学会、2023年8月)
  30. ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」『国語国文研究』161号(北海道大学国文学会、2023年8月)
  31. ^ a b c 諏訪市史, pp. 717–719, 「第四節 上社大祝と五官祝」
  32. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, pp. 106–108.
  33. ^ a b 平山 2002, p. 132.
  34. ^ 海老名 & 福田 1992.
  35. ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」[34]
  36. ^ 平山 2002, pp. 133–134.
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  39. ^ 平山 2002, p. 135.
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  45. ^ a b c 平山 2002, p. 138.
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  49. ^ 平山 2002, p. 144.
  50. ^ a b 平山 2002, p. 145.
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  55. ^ a b c 平山 2002, p. 149.
  56. ^ 勝山記』、「神使御頭之日記」『山梨県史』資料編6下(県外資料)
  57. ^ 平山 2002, p. 150.
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  60. ^ 『高白斎記』、「守矢頼真書留」『山梨県資』6下
  61. ^ 丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』-」『武田氏研究』34号、2006年。
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  63. ^ 平山 2011, pp. 111–112.
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  65. ^ 平山 2011, pp. 113–114.
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  69. ^ a b 太田亮姓氏家系大辞典 第2巻』姓氏家系大辞典刊行会、1934年昭和9年)、3099 - 3104頁。
  70. ^ a b 楠町史, pp. 77–78.
  71. ^ a b c d e f 楠町史, pp. 71–76.
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  73. ^ a b c d e 楠町史, p. 77.
  74. ^ 楠町史, p. 79.
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  77. ^ 楠町史, p. 90.
  78. ^ 宮地直一諏訪史 第2巻前編』信濃教育会諏訪部会、1931年昭和6年)、317 - 334頁。
  79. ^ 神氏系図 前田古写本之写”. 信州デジくら. 信州デジタルコモンズ 所蔵:長野県立歴史館. 2020年9月14日閲覧。
  80. ^ 神家系図」『諏訪史料叢書 巻28』諏訪教育会、1938年(昭和13年)、1 - 8頁。
  81. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, pp. 208–209.
  82. ^ 伊藤麟太朗「所謂『阿蘇氏系図』について」『信濃』46(8)、信濃史学会、1994年、696-697頁。
  83. ^ 村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」『ヒト・モノ・コトバの人類学 国分直一博士米寿記念論文集』1996年、202-218頁。
  84. ^ 福島正樹 (2003年11月24日). “信濃古代の通史叙述をめぐって”. 2019年1月30日閲覧。
  85. ^ 井原今朝男「神社史料の諸問題 : 諏訪神社関係史料を中心に」(『国立歴史民俗博物館研究報告』148、2008年、260-262頁。


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