頼岳寺
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頼岳寺 | |
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頼岳寺参道
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所在地 | 〒391-0001 長野県茅野市ちの1753 |
位置 | 北緯36度0分35秒 東経138度8分37秒 / 北緯36.00972度 東経138.14361度座標: 北緯36度0分35秒 東経138度8分37秒 / 北緯36.00972度 東経138.14361度 |
山号 | 少林山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 寛永8年(1631年) |
開山 | 大通関徹大和尚 |
開基 | 諏訪頼水 |
公式サイト | 曹洞宗少林山頼岳寺ホームページ |
法人番号 | 9100005008292 |
頼岳寺(らいがくじ)は、長野県茅野市にある曹洞宗の寺院。山号は少林山。
概要

戦国時代、徳川家康家臣団の関東移封により諏訪頼水が上野国にあった頃、雙林寺十三世の大通関徹和尚に参禅し、江戸時代に旧領諏訪郡を安堵された後に招聘し、戦国時代に焼失した永明寺から什器を移して、寛永8年(1631年)に菩提寺として開基とした。寺号は頼水の法名「頼岳院殿」にちなむ。
裏山には入母屋単層で朱塗りの廟所があり、頼水、父諏訪頼忠(永明寺殿)、頼水の母「理昌院殿」が祀られている。周囲の墓地には大祝家、二の丸家老をはじめ、諏訪高島藩重臣の伽藍塔、宝篋印塔が立ち並ぶ。 本尊の釈迦如来は丈が71cmで、運慶、湛慶の合作という。往時には寺領1000石、年々斎米6俵、永代法会料250俵、薪300駄を受け、「鵞湖禅林」として参禅の僧侶が常時30人を下ることがなかったという。
安政6年(1859年)、明治34年(1901年)に火災に遭い、現在の本堂は大正時代に再建されたが、内陣正面の欄間には立川和四郎冨昌の手になる唐破風の彫刻が施されている。
高島藩主諏訪家墓所(頼岳寺と諏訪市温泉寺墓所の一括指定)が国の史跡に指定されている[1]。
交通アクセス

脚注
- ^ “国史跡高島藩主諏訪家墓所”. 諏訪市 (2021年4月1日). 2024年1月7日閲覧。
参考文献
関連項目
外部リンク
- 曹洞宗少林山頼岳寺ホームページ
- 日本歴史地名大系 「頼岳寺」の解説『頼岳寺』 - コトバンク
頼岳寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 08:50 UTC 版)
詳細は「頼岳寺」を参照 頼水は新たな菩提寺として寛永8年(1631年)に頼岳寺を創建している。少林山頼岳寺は曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と總持寺(神奈川県)、開山(初代住職)は雙林寺(群馬県)十三世大通関徹大和尚。高島藩主諏訪家墓所(温泉寺 (諏訪市)墓所と頼岳寺墓所〈諏訪氏頼岳寺廟所〉の一括指定)が国の史跡に指定されている。 頼岳寺の別名は「鵞湖禅林」といい、鵞湖とは諏訪湖のことで、寺から眺めることができる。湖の形が鵞に似ていたためにそう呼ばれていた。 本堂左後方にある廟所(国指定史跡)には頼水(頼岳寺殿)とその父(永明寺殿)・母(理昌院殿)がまつられている。 本尊釈迦牟尼佛(木像座体二尺三寸五分)は焼失した永明寺から移された物。運慶・湛慶合作と伝えられる。本堂内陣正面の欄間彫刻は立川流二代和四郎冨昌の作。杉並木は推定樹齢三百年におよぶものもあり茅野市文化財に指定されている。 市指定文化財として「諏訪頼水念持仏」「琥珀観音(頼水が徳川家康より拝領)」「虚空蔵菩薩坐像」「十六羅漢図」(吉山明兆作)がある。(十六羅漢図は他に、鏝絵作家、小川天香、奉納額もある。) 「諏訪氏頼岳寺廟所」は市指定史跡にもなっていて、同敷地内には諏訪家を支えた家臣団の墓地も多く残されている。
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