頼岳寺の墓所
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慶長10年(1605年)、諏訪頼忠が死去。子の頼水は、上原(茅野市ちの)にある諏訪家の菩提寺である永明寺に父を葬った。上原は中世以来の諏訪家の本拠地であった。その後寛永7年(1630年)、永明寺はなんらかの理由により破却された。翌寛永8年(1631年)、頼水は上原に新たに曹洞宗頼岳寺を創建、父頼忠と母理昌院の墓所を同寺に改葬した。後に頼水自身も頼岳寺に葬られるが、諏訪家の本拠が上諏訪の高島城に移ったことから、2代以降の藩主の墓所は上諏訪の温泉寺に築かれることとなった。 頼岳寺本堂北裏の斜面を整地して数段の平地を造成し、初代藩主頼水とその父母をはじめ、高島藩二ノ丸家、大祝、家臣団などの墓所が造られている。本堂左の石段を上ると頼水とその父母を祀る御霊屋がある。頼岳寺は安政6年(1859年)に火災で焼失。明治34年(1901年)にも火災で本堂を失っているが、このときに御霊屋が焼けたという記録はない。御霊屋の創建については未詳だが、現存する御霊屋は安政6年(1859年)の建立とみられる。なお、御霊屋の屋根は2010年に修理されている。 御霊屋は木造平屋建で、屋根は入母屋造、瓦葺き、一軒疎垂木(ひとのきまばらだるき)とする。平面規模は桁行8.2メートル×梁間3.6メートル。壁は竪羽目板で全面弁柄塗りとし、床は土間である。桁行を3間に分け、向かって左の間に頼水、中央の間に頼忠、右の間に頼忠の室(頼水の母)理昌院の墓塔を安置する。3間とも両開きの唐戸を設け、軒下には被葬者の院号を記した扁額を掲げる(扁額は左・中・右の順に「頼岳院」「永明院」「理昌院」)。 御霊屋の向かって左の間には安山岩製の頼水の石廟があり、その中に石碑が立つ。石廟は総高3メートルほどで、基壇、本体、宝形造屋根、露盤、宝珠からなる。基壇は前後2材の石材からなる。前後左右の側面は各面とも左・中・右の3間に割り付け、正面中央間に神紋、その他の間には蓮池文をあらわす。本体部は一石を刳り抜いたもので、内法長押(うちのりなげし)で上下に分ける。正面には両開きの桟唐戸を設ける。桟唐戸の各扉には左右2列・上下2段の窓を開け、内部に安置される石碑が見えるようになっている。内法長押上は左・中・右の3間に割り付け、中央間には「碧落殿」の文字を篆書で記し、右と左はそれぞれ日輪・月輪をあらわす。屋根部は一石製、宝形造(四角錐形)で二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)の垂木形をあらわす。 石廟の内部に安置する石碑は高さ80センチ、幅37センチ、厚さ8センチの板石で、五輪塔形を陽刻し、下から上へ「地・水・火・風・空」の文字を記す。五輪塔形の両脇には縦書の銘文があり、寛永18年(1641年)、出雲守忠隣が施主となって建立した旨が記されている。「出雲守忠隣」は2代藩主忠恒のことと思われるが、同人の名乗りは史料に見える限りでは「忠恒」または「忠澄」であり、「忠隣」と名乗ったものはこの銘文以外に知られていない。石廟がある室の右壁には木製の墓誌がある。これは3代藩主忠晴が延宝7年(1679年)に奉納したものである。 頼忠の墓所には、向かって左に宝篋印塔、右に五輪塔が立つ。理昌院の墓所も同様に宝篋印塔と五輪塔が立つが、頼忠墓所とは逆に、向かって左に五輪塔、右に宝篋印塔を配置する。いずれの塔も安山岩製で、宝篋印塔の高さ(基壇から相輪まで)は頼忠分が112センチ、理昌院分が110センチ、五輪塔の高さ(地輪から空輪まで)はは頼忠分が68センチ、理昌院分が81センチである。御霊屋前には頼水の子らが奉納した石燈籠6基が立つ。
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