永井直珍とは? わかりやすく解説

永井直珍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 01:20 UTC 版)

 
永井 直珍
時代 江戸時代中期
生誕 寛保2年(1742年)8月
死没 明和7年11月17日1771年1月2日
改名 虎之助(幼名)、直珍
戒名 月洞宗郭本真院
墓所 東海寺清光院
官位 従五位下、飛騨
幕府 江戸幕府
摂津高槻藩
氏族 永井氏
父母 父:永井直期、養父:永井直行
兄弟 直行、直養、直珍、牧野成融、安藤寛長
正室:本多康桓の娘
直進、本多忠昶、
数(本多正温正室のち六郷政速正室)
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永井 直珍(ながい なおよし)は、摂津高槻藩の第8代藩主。

経歴

寛保2年(1742年)8月、第6代藩主永井直期の三男として生まれる。宝暦8年(1758年)に兄で第7代藩主の直行が死去したため、養子として跡を継いだ。宝暦9年4月25日(1759年)に豊姫と婚姻する。明和7年(1770年)11月17日に死去し、跡を長男の直進が継いだ。享年29。

正室

正室の豊姫は、『寛政重修諸家譜』などの公式系図では膳所藩本多康桓の娘となっているが、越後長岡藩牧野氏家譜の補足史料の『御附録』では実は牧野忠周の長女で牧野忠寛の姉であるとする。また、長岡藩主牧野忠利の未亡人でもある。

寛保元年3月21日(1741年)に出生する。当初の名前は逸姫で、寛延3年(1750年)に理由があって公式上、本多康桓の娘として牧野忠利と婚約し、茂姫と改名した。宝暦5年6月(1755年)に婚礼を上げるが、同年7月に忠利が死去し、寡婦となる。宝暦7年2月(1757年)に膳所藩の康桓に引き取られて同年5月に豊姫と改名し、2年後に直珍に嫁いだ。

その後、直珍にも死別されて安永5年6月29日(1776年)に死去した。

参考文献

  • 港区済海寺遺跡調査団(団長鈴木公雄)「港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」(1986年、東京都港区教育委員会)




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