諏訪頼蔭とは? わかりやすく解説

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諏訪頼蔭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 05:19 UTC 版)

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諏訪 頼蔭(すわ よりかげ、寛永20年8月9日1643年9月21日) - 享保10年10月1日1725年11月5日))は、江戸時代前期の旗本

信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の次男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は中嶋氏。正室は有馬康純の娘。子に頼戡、頼深(頼久の養子となる)がいる。官位は従五位下、下総守。通称は兵部。初名は頼尚(よりなお)。

承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(埴原知行所)を分知され、寄合に列する。

寛文9年(1669年)9月11日、御小姓組頭となり、天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡新田郡に500石を加増される。元禄2年(1689年)閏正月26日には火付盗賊改方、御先銕炮頭、元禄5年(1692年)4月22日には盗賊追捕役、元禄8年(1695年)2月18日には御持筒頭、元禄9年(1696年)3月28日には長崎奉行に就任し、下野国河内郡に500石を加増される。元禄11年(1698年)9月26日、家臣の不祥事で解任され、閉門を言い渡される。元禄13年(1700年)5月9日に許されて小普請に入るが、出仕を憚り、元禄16年(1703年)4月25日に恩免となる。

宝永4年(1707年)12月14日に致仕享保10年(1725年)10月1日に江戸で死去。享年83。法名は節山。麻布曹渓寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。

参考文献




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