諏訪頼満 (安芸守)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 諏訪頼満 (安芸守)の意味・解説 

諏訪頼満 (安芸守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/11 00:21 UTC 版)

 
諏訪 頼満
時代 戦国時代
生誕 文明5年(1473年[注釈 1]
死没 天文8年(1540年[注釈 2]
改名 宮法師丸(幼名)、頼満、碧雲斎(法号)
官位 安芸守
氏族 諏訪氏
父母 諏訪政満
兄弟 宮若丸、頼満、小太郎
頼隆満隣満隆、今井信隣室
テンプレートを表示

諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代武将信濃戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。

生涯

諏訪政満の次男[1]

文明15年(1483年1月8日、一族の諏訪継満(諏訪大社大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗(高遠氏)の反乱(文明の内訌)によって父の政満と兄の宮若丸を殺されたため、10歳で家督を相続した[1]。成長して永正15年(1518年)に金刺興春の子・昌春を萩倉要害に攻めて[1]甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。

享禄3年(1530年4月18日、嫡男の頼隆が頼満に先立って31歳で急死し、天文3年には嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦(山梨県韮崎市)で敗退しており、天文4年(1535年)には信虎と和睦する[1]。信虎の娘を頼重に娶わせ、ともに小笠原長棟を攻めた。

天文8年(1539年)11月、背中に生じた腫瘍の悪化によって67歳で病死した[1]。諏訪氏が武田晴信によって滅ぼされる2年半ほど前のことであった。

上原城居城跡の石碑

脚注

注釈

  1. ^ 『戦国人名事典』では頼満の生年は文明12年(1480年[1]
  2. ^ 『戦国人名事典』では頼満の没年は天文8年(1539年)12月9日[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g 阿部 & 西村 1990, p. 440.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諏訪頼満 (安芸守)」の関連用語

諏訪頼満 (安芸守)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諏訪頼満 (安芸守)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの諏訪頼満 (安芸守) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS