諏訪氏 諏訪神族

諏訪氏

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諏訪神族

諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といい、信濃国には一門が多い。さらに鎌倉時代に諏訪氏が北条氏御内人となったことから全国に社領を拡大し、多くの一族が全国に拡散していった。地方の領主としては駿河国安部氏丹波国の上原氏、出雲国の牛尾氏、薩摩国の上井氏なども諏訪氏の一門に該当する[69]

諸国の諏訪氏

京都諏訪氏

室町時代には庶流・小坂家出身の諏訪円忠(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)が建武政権雑訴決断所の成員を務め、後醍醐天皇から離反した尊氏に従い室町幕府評定衆引付衆天龍寺造営奉行などを務め、在京して将軍直属の奉公衆としても活躍し、幕府滅亡までその職を世襲した。円忠の嘆願が受け入れられ、信濃の諏訪氏は幕府より存続を許された。また『諏方大明神画詞』は円忠による著作物である。諏訪流鷹術はこの家に伝えられた。

文正元年(1466年諏訪貞郷は幕府の祐筆を辞して信濃使節となり、京と信濃を往復している。諏訪貞通は幕府奉行人を務め、文明8年(1476年)諏訪大社の大般若経転読法会の再興に関する後土御門天皇綸旨を得て、長享元年(1487年)将軍足利義政日野富子ら幕府要人から諏訪法楽和歌短冊を集め、京都の諏訪神社に奉納した。また京都諏訪氏は足利義昭の帰京や将軍擁立にも奔走している。幕府滅亡後、諏訪盛直明智光秀に仕えたが、天正10年(1582年)の山崎の戦いで敗北した。

伊勢諏訪氏

伊勢諏訪氏は、南北朝時代伊勢国司北畠氏被官だった諏訪貞信(俗称「楠(くす)十郎」)を祖とする支族。伊勢北部(現在の三重県)の土豪北勢四十八家の一つ。正平24年(1369年)から応永19年(1412年)まで、約50年間3代続いた。第二代からは中島氏を名乗った。 楠(くす、現在の三重県四日市市楠町)の地の城主だったため、俗に楠氏(読みは「くす」氏)とも呼ばれるが、これは俗称であって当主たちが自ら楠氏を名乗った事実はない[70]。 初代の貞信に楠木正成の落とし子伝説があること、伊勢諏訪氏滅亡後の楠城主の後任として本物の楠(くすのき)氏である伊勢楠木氏が来ること、伊勢楠木氏の楠木正威が第3代当主貞則の養嗣だったこと、等々があって非常に紛らわしいが、クス氏とクスノキ氏は全く別の氏族である。

初代当主は諏訪貞信、通称を十郎。俗に楠十郎ともいう。延元2年(1337年)1月25日生[71]。 当時、南朝方の宗良親王が信濃国大河原(現在の長野県大鹿村)を拠点としており、大河原を交通の要衝として伊勢と諏訪の南朝勢力は結びつきが強く、貞信もまた南朝の志士として活動を行っていた[71]正平24年(1369年)9月、北朝武将土岐頼康が伊勢に侵攻したため、国司北畠顕能は、次男の顕泰率いる5000騎で迎撃しこれを退け、逆に北朝方の手にあった北勢の諸城を攻略した[71]。 同年10月、顕能は防備を固めるために攻略したばかりの諸城を再編成し、その一つ楠山城(くすやまじょう)あるいは楠城(くすじょう)を、手勢300と共に諏訪貞信に与えて、北朝勢力に対する守りとした[38]。 応永3年(1396年)2月24日没、菩提寺は現在の四日市市楠町本郷の正覚寺[71]正室は伊勢矢田氏当主で山田城の城主だった矢田蔵人入道の娘で、応永10年(1410年)10月没[71]。 なお、楠町に住む貞信子孫と称する家系の言い伝えでは、楠木正成延元元年(1336年)5月25日湊川の戦いで討死した後、妾の政野が名草道斎という医師の助けで諏訪に落ち延びて、同年10月15日に生んだ子とされるが[71]、同時代に伊勢諏訪氏が楠氏を称したことはなく、後世の創作である[70]

第二代は諏訪貞益(後に中島貞益)、通称を七郎左衛門[72]。貞信の子。北畠顕泰から中島四郷(現在の三重県四日市市楠町本郷)を賜り、中島を本貫として諏訪氏から中島氏に改名した[72]。応永6年(1399年)の応永の乱に参戦後、北畠の命令に背いて伊勢に戻らず京都に駐留し続けて、北朝に直接仕えた[72]。激怒した北畠氏に城主を解任され、の貞則に家督は移った[72]。貞則の自死後、応永23年(1416年)5月17日に没[72]

第三代は中島貞則、通称を九郎左衛門[73]。応永6年(1399年)に伊勢を捨てたに代わって楠山城となったが、やはり応永19年(1412年)9月に国を出奔して京都に移住している[73]。ここに至って北畠満雅は完全に中島氏を見限り、貞則を除封して二度と中島氏を楠山城に入れることはなく[73]、応永17年(1410年)に満雅の命令で貞則の養嗣となっていた楠木正威(楠正威)を次代の城主とした[74]。自責の念を感じたのか、貞則は応永21年(1414年)6月8日に京都油小路の屋敷で自死した[73]。墓は京都府京都市左京区黒谷町にある[73]金戒光明寺のことか?)。

伊勢諏訪氏(伊勢中島氏)の滅亡後、楠山城(楠城)の城主の四代目以降の地位は、楠木氏の嫡流である伊勢楠木氏に移ることになる。

楠城主としての諏訪氏(中島氏)は滅亡したが、楠町の旧家である楠町本郷の中島家と岡田家が中島氏子孫を称している[75]。また、楠町北五味塚の富田家(松平定信桑名藩主だった頃に下手代を担った家柄)も、諏訪貞信の遠い親族(先祖の一人が楠貞孝郷という人物の伯母婿)であると称している[76]。 富田家の伝承では、諏訪貞信の六代または七代の子孫に楠貞孝郷通称を十郎)という者がいて、滝川豊前守(滝川忠征)の婿となったが、天正壬午(つまり天正10年、1582年)3月2日、羽柴秀吉との戦いで、尾張戸田城籠城中に数え16歳にして戦死し、これが楠(くす)氏の本当の最期なのだという[77]滝川忠征と羽柴秀吉の戦いは天正11年(1583年)なので、年が1年合わないが、干支の書き間違いか。

駿河諏訪氏

駿河守護の今川氏に仕えた諏訪長宗の次男・長満を祖とする支族[69]

系譜

有員から頼満(安芸守)まで(神氏系図)

『神氏系図(前田家本)』[78][79]とこれとほぼ似ている『神家系図(千野家本)』(『諏訪史料叢書 巻28』に収録[80])では神氏の始祖が有員とされている。なお、有員からその14世孫の大祝・頼信までの系図は平安時代に紛失して不明となっている。

夫れ諏方大明神の垂迹の事、異説之れ在り。或いは他国応生の霊、或いは吾朝根本の神、旧記の異端、凡慮測り難し。爰に『旧事本紀』説きて曰はく、素盞烏尊の御孫・大己神原文ママの第二御子、建御名方神是れなり。神代の義は幽邈にして之れを記し難し。(中略)
別紙在り、信州諏方郡に神幸するは、人皇卅二代・用明天皇の御宇なり。時に八歳の童子有り、〔後に有員と字す〕明神に随遂せしむ。守屋大神と諍ひ奉りて、守屋山に至りて御合戦有り。童子神兵を率ゐて守屋を追落す。則ち彼の山麓に社壇を構へて、吾神御衣を童子に脱ぎ着せ、「吾に躰無し、祝を以て躰と為す」と神勅有りて、御身を隠し給ふ。即ち彼の童子を神躰と為して(みそぎはふり)と名づく。神氏の始祖なり。明神は普賢、童子は文殊なり。(『神氏系図』序文、原漢文)

失われた14代

『神氏系図(前田家本)』と『神家系図(千野家本)』によると、神太為仲(諏訪為仲)は後三年の役に参戦する際、神氏に伝わる系図を妻の父の源為公に預けたが、これを紛失したことにより有員と頼信(為仲の祖父)の間の14代が不明となった。

建御名方神から有員まで

建御名方神から有員までの系図も不明とされる。

頼満(安芸守)以降

寺田・鷲尾(2010年(平成22年))などの複数の研究者は、この記述を怪しいと見て、「異本阿蘇氏系図に関連する金刺氏系図から、神氏の側が捏造した可能性もある」と評価している(ただし、金刺氏系図が『神氏系図』の内容を剽窃した可能性もなくはないと指摘している。)[81][82][83][84][85]


注釈

  1. ^ 『前田氏本神氏系図』のように用明天皇の時代の人物とする文献もある。
  2. ^ ただし「用明天皇2年」は丁未の乱が勃発した年でもあるため、中世に広く流布していた聖徳太子伝説に由来するという可能性もある[13]
  3. ^ 「熊子」「熊古」とも表記される。
  4. ^ ただし「神氏は金刺氏分家」という立場はあくまで金井らの論であり、『阿蘇氏系図』から直接出てくるものではない[21]
  5. ^ 神宝は現在上社本宮の宝物殿に収蔵されている。
  6. ^ 旧諏訪藩は現米1万6070石(表高3万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[67]
  7. ^ 『神氏系図』には記録されていないが、ここで追加しておく。
  8. ^ 旗本・内藤信有の3男。
  9. ^ 越後新発田藩主溝口直溥の14男。

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『諏訪氏』 - コトバンク
  2. ^ 諏訪市史, p. 717.
  3. ^ 塙保己一編「続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年大正14年)、494 - 539頁。
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  7. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, pp. 134–138.
  8. ^ 谷川健一『蛇: 不死と再生の民俗』冨山房インターナショナル、2012年、27-29頁。 
  9. ^ 谷川健一『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』白水社、1987年、136頁。 
  10. ^ 寺田 & 鷲尾 2010, p. 227.
  11. ^ 諏訪市史, pp. 692–694.
  12. ^ 諏訪市史, pp. 711–713.
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  14. ^ 大和岩雄「建御名方命と多氏」『信濃古代史考』名著出版、1990年、220-221頁。 
  15. ^ 宮坂光昭 著「古墳の変遷から見た古氏族の動向」、古部族研究会 編『古諏訪の祭祀と氏族』人間社〈日本原初考 2〉、2017年、77頁。 
  16. ^ 諏訪市史, pp. 686–691, 「第二節 諏訪神社上社・下社」.
  17. ^ 諏訪市史, pp. 726–727, 「第四節 上社大祝と五官祝」.
  18. ^ 諏訪市史, pp. 711–712.
  19. ^ 金井典美 著「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」、古代部族研究会 編『諏訪信仰の発生と展開』人間社〈日本原初考 3〉、2018年、38-47頁。 
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  30. ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」『国語国文研究』161号(北海道大学国文学会、2023年8月)
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