開発・配備
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「アロー (ミサイル)」の記事における「開発・配備」の解説
イスラエルは周辺の中東諸国が配備を進める短・中距離弾道ミサイルに対処する必要から、1986年に弾道ミサイルの迎撃を目的とするミサイルの共同研究を米国と開始し、1988年にイツハク・ラビン国防相は米国との共同開発合意書に調印した。 1990年8月に初の発射実験が行われたが成功せず、その後の試射も失敗が続き、開発は難航した。1991年の湾岸戦争において実際にイラク軍のスカッドミサイルによる攻撃を受けたことは、迎撃ミサイルの開発が促進される大きな契機となる。 1994年6月に迎撃テストに初めて成功。その後アローはミサイル本体を小型化し、性能を向上させたアロー2の開発に移行した。1996年8月にアロー2によって行われた初の迎撃試験は成功し、その後の迎撃試験も標的ミサイルの迎撃に良好な成績を収めた。 2000年3月14日、アロー2を装備した部隊がテルアビブ南郊のパルマヒム空軍基地(Palmahim air force base)に展開された。戦域ミサイル防衛専用に開発された迎撃ミサイルが実戦配備されたのはこれが世界初のことである。 現在はイスラエル国内の基地に3つの迎撃部隊が配備されている。
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開発・配備
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「カールグスタフ pvg m/42」の記事における「開発・配備」の解説
それまでスウェーデン軍が使用していた対戦車銃であるPvg m/21(Pansarvärnsgevär modell 1921)、及びG m/39(Gevär modell39)、G m/40(Gevär modell 40) を代換するものとして、1940年より、イギリスの発明家であり兵器開発者でもある、チャールズ・デニストン・バーニー卿(Charles Dennistoun Burney, 2nd Baronet(英語版) を技術顧問に迎え、ヒューゴ・アブラハムッソン(Hugo Abrahamsson)、ハラルド・ヤンツェン(Harald Jentzen)大尉の両名を開発主任として開発が始められ、同年9月には最初の試作品が完成、1941年には最終的な試作品が完成し、試験の結果、翌1942年8月に“Pvg m/42”として制式採用された。 試験の結果は好調であり、1942年8月から1944年7月にかけて3,219挺が発注されたが、威力的に既に列国の戦車の装甲に対してはこの貫通力では対戦車兵器としての有効性が低い、と結論され、製造は第二次世界大戦の終結した1945年をもって1,000挺で打ち切られた。製造され納入された1,000挺のうち半数の500挺には製造上の問題から前述の閉鎖器尾栓部が規定通りの強度を発揮できないと診断され、訓練用に使用されたのみである。 1948年からは後継のカールグスタフ 84mm無反動砲(Granatgevär m/48 (Grg m/48)に置き換えられ、予備兵器となった。
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開発・配備
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「ガブリエル (ミサイル)」の記事における「開発・配備」の解説
1962年、エジプト海軍がソ連製のP-15(SS-N-2)艦対艦ミサイルで武装したミサイル艇を受領し始めたことから、イスラエル側の計画も本格的に推進されることとなった。この頃には、ガブリエルは当初予定の駆逐艦ではなく、200トン級の高速戦闘艇(後のサール型)と組み合わされて、ミサイル艇として運用される計画になっていた。 1964年中盤より発射試験が開始された。先行研究がない独自技術が多かったこともあって、当初は失敗が連続したが、徐々に克服されていき、1965年の第3回試験では成功した。また1967年10月21日のエイラート撃沈事件により、開発は更に加速された。1969年4月7日、「エイラート」の姉妹艦である「ヤーフォ」を実艦標的として初の実射試験が行われ、直撃・撃沈に成功した。 1973年10月7日、第四次中東戦争の勃発翌日に発生したラタキア沖海戦において、ガブリエルは実戦投入された。この戦闘では、サールII・III型およびIV型がシリア海軍のコマール型およびオーサ型と交戦して全艦を撃破した。この戦闘ではシリア側もP-15を発射していることから、これが、世界初の対艦ミサイル搭載艦艇同士のミサイル戦とされる(一部の戦果は砲による)。また、翌日から発生したエジプト海軍との交戦(ダミエッタ沖海戦)でも、エジプト側のオーサ型ミサイル艇を撃沈している。
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開発・配備
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「S-10 (水中航走式機雷掃討具)」の記事における「開発・配備」の解説
開発は、防衛省技術研究本部において平成10年(1998年)度より着手された。試験艦「くりはま」において、平成13年(2001年)度から14年(2002年)度にかけて技術試験を実施し、平成15年(2003年)7月に実用試験を終了した。 搭載艦艇 ひらしま型掃海艇(16MSC) えのしま型掃海艇(20MSC)
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開発・配備
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「遠隔操縦観測システム」の記事における「開発・配備」の解説
富士重工業が主契約企業となり、1988年(昭和63年)より技術研究本部(技本)による研究試作と共同開発が行われた。墜落事故等が発生するなど、開発は難航したが、1996年(平成8年)度に開発が終了し、陸上自衛隊と富士重工業などによる実用試験が続けられた。 1996年のUS-1A改・試作製造分担の決定等に際し、富士重工業が希望する担当部位を有利にしてもらうために当時の防衛庁(現 防衛省)政務次官に接触、報酬として500万円が授受された事が発覚、1998年(平成10年)末に富士重工業の会長と前専務、元政務次官が贈収賄容疑で逮捕、起訴され、後に執行猶予付き有罪判決を受けた。同年12月15日に防衛庁は制裁措置として、「真に止むを得ない物」を除いて富士との取引を1年間停止し、本機の研究開発と予算獲得も見送るとした。 2001年(平成13年)度から量産機の調達が開始された。量産初号機は2004年(平成16年)1月28日に初飛行した。量産初号機は、西部方面特科隊第302観測中隊(空中標定小隊が運用)に配備された。 配備部隊は、主に情報科が情報隊・情報処理隊隷下の無人偵察機隊および、野戦特科が第1特科団および方面特科隊、特科教導隊の観測中隊に、高射特科が第1高射特科団の無人偵察機隊に配備され、偵察および火砲の空中標定に用いられる。
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開発・配備
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「FGM-148 ジャベリン」の記事における「開発・配備」の解説
1983年より開発構想が検討され、1991年に初の試射が行われた。アメリカ軍への配備開始は1996年のことである。 FGM-148の開発・製造はテキサス・インスツルメンツ社・マーティン・マリエッタ社(現在はそれぞれ、レイセオン社・ロッキード・マーティン社)の合弁企業であるJAVELIN社による。これまでに20,000基以上のミサイル本体と、3,000基以上のCLU(Command Launch Unit。分離可能な発射機と照準器のセットで、これによりFGM-148は安全な場所から目標を狙い、離れた場所にある発射機からミサイルを発射するといった運用が可能になる)が納入されている。 2002年には、台湾(中華民国)に360基のミサイルと40基の発射機・トレーニング機器・兵站サポート、そして、トレーニングプログラムまでを包括的提供する契約が3,900万USドルで締結された。これは、計算上ミサイル1基あたりにつき約10万USドルに相当する。 2003年1月には、イギリス国防省が軽誘導対戦車兵器(Light Forces Anti-Tank Guided Weapon System, LFATGWS)トライアルにおいてFGM-148を採用することを決定した。2005年から旧式のミランからの転換が進んでいる。 歩兵の携行装備の中でも非常に高価な装備であるため、世界中の軍隊において実射訓練の多いアメリカ陸軍さえ訓練にはシミュレーターを使用する。このシミュレーターにおいて好成績を残した者のみが実機での実射訓練を行える。 2003年のイラク侵攻作戦(イラク戦争)において初めて実戦使用された。 2017年12月22日、アメリカは、国内の混乱が続くウクライナに対して、ジャベリンなど対戦車ミサイルを含む防衛装備の提供を行うことを表明している。 2022年2月24日より開始されたロシア連邦軍によるウクライナ侵攻(2022年ロシアのウクライナ侵攻)では、ウクライナ軍によってアメリカから供与されたジャベリンが多数使用され、ロシア陸軍の戦車・装甲車などの装甲戦闘車両に対して多大な戦果を挙げている。
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開発・配備
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IT-1を誕生させた「既存の主力戦車の発展型として、誘導装置付きロケットの発射装置を搭載した本格的な戦闘車両を開発する」計画は1957年より始まっており、当初は第183工場によりT-54/55戦車の車体を用いたものとして進められたが、同年にはT-55の発展型である後継車輌の試作車(オブイェークト165)が完成し、実用化の目処が立ったため、翌1958年にはオブイェークト165(後のT-62)と同様の車体を用いるものとして修正された。 Объект 150(オブイェークト150)の名称が与えられた車両の開発は順調に進み、1964年4月には2種類の試作車が完成して各種テストが開始された。1964年の末までに94回の3M7の試射が行われている。テストの経過は軍を大いに満足させるもので、1965年、ИТ-1(IT-1)の制式名称が与えられて生産が開始された。 実戦部隊としては「ロケット戦車大隊」としてベラルーシ(白ロシア)に二個大隊が編成されたが、部隊配備されて実際に運用が開始されると、3M7ドラコーンは大きく重すぎる点で不評であり、小型、軽量で手軽な9M14マリュートカ(AT-3サガー)が大量に配備されたこともあって戦車を流用した専用の車両を装備することの存在意義が失われ、生産数は1968年から1970年までの間に約60輌に留まり、それ以上の生産は行われなかった。エンジンをGTD-1000ガスタービンエンジン(出力 1,100馬力)に換装したIT-1Tも開発されたが、試作のみに終わっている。配備された車両も生産完了後程なく部隊から引き揚げられ、編成された二個のロケット戦車大隊も解散した。 引き揚げられたIT-1は武装を撤去され多くが装甲回収車IT-1-T(IT-T)に改造されたが、これは回収車両としては能力不足で、砲塔も完全に撤去した仕様のBTS-4V回収車に再改修され、T-62を装備する戦車部隊などで使用された。 装甲回収車に改造されなかった1輌のIT-1が、クビンカ戦車博物館に現存している。
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開発・配備
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「P-270 (ミサイル)」の記事における「開発・配備」の解説
P-270は、1970年代にラドゥガ設計局にてP-15 テルミート(SS-N-2 スティックス)の後継ミサイルとして開発が開始された。そのため、サイズと重量をP-15と同等とすることが求められた。しかし、P-15よりコンパクトに収める目論見は成功せず、P-15の全長6.5m・直径0.78mに対し、P-270は全長9.745m・直径0.74mとほぼ1.5倍のサイズ、重量もP-15の2,500kgに対しP-270は4,500kgとやはり倍近いミサイルとなった。そのためか、配備はソヴレメンヌイ級駆逐艦、ウダロイII級駆逐艦、タランタルIII級ミサイル艇にとどまり、P-15装備艦への換装は行われなかった。 P-270の推進系はインテグラル・ロケット・ラムジェット (integral rocket ramjet、IRR) である。旧ソ連では実用化が早く、同海軍では1980年代初頭から使われていた方式であった。当時は、「西側には無い先進性」であったが、現在では日本のASM-3など世界的に広まっている。 目標が近距離の場合は艦艇のレーダー(ソヴレメンヌイ駆逐艦はMR-331 バンド・スタンド)、遠距離の場合は艦載ヘリコプター・航空機からの目標情報により照準・発射され、ロケットによりM2前後まで加速する。最小射程は3km。巡航はラムジェットによりM2.5で高度20mを飛行する。敵による発見を避けるためには低空を飛行し、地球の丸みの陰に隠れるのが有効だが、超音速ミサイルは低空に降りすぎると衝撃波が海水を巻き上げ、かえって発見されやすくなる。20mの巡航高度は、この2つの要素から導かれたと思われる。ミサイルのコースから発射艦の位置をたどられないように迂回したコースを飛行させることもできる。P-270は一般的な艦船のレーダー見通し距離(12nm、約22.2km)を30秒足らずで飛行するため、「迎撃されることの無いミサイル」と呼ばれる事もあるが、実際にはP-270自身の見通し距離に艦船のレーダー見通し距離を足した距離で探知されてしまうため、それほど安全には飛行できない。そこで、目標まで5-7kmまで接近すると高度を7mに下げ、目標の艦からの攻撃を回避するため10-15GのS字運動をしながら突入する。命中すると300kgの徹甲弾頭のみならず、弾体の運動エネルギー(理論上戦艦大和の主砲弾(重量1.46t、初速M2.3)より大きい)、残存燃料による火災も目標に多大なダメージを与える。 現在、P-270と同等以上の性能を持ち、よりコンパクトなP-800 ヤーホント対艦ミサイルが実用化されており、これ以上P-270装備艦が増えることは無いと思われる。 1999年、ロシアは中国にソブレメンヌイ級駆逐艦を2隻(P-270は3M80E低空巡航においては射程150km、最大射程250km)輸出、その後更に2隻(P-270は3M80BEで射程は低空巡航において射程200km)を輸出した。また、ベトナムにはタランタルIII級ミサイル艇が輸出されている。
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開発・配備
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「A-222 130mm自走沿岸砲」の記事における「開発・配備」の解説
A-222の開発は第2試作設計局 (ОКБ-2) により主導され、ヴォルゴグラードのティターン中央設計局によって1976年12月より開始された。 当初、威力・射程の観点から口径を152mmもしくは203mmにすべきとの主張がなされ、これは幾多の議論を重ねたものの、ソビエト海軍の艦艇で152mm及び203mm口径の砲を装備するものは今後は建造される可能性がないこともあり、最終的には「艦載砲として次世代の主力となるべく開発されているものと同じ口径が望ましい」として最終的には130mmに決定した。 1980年には1射撃単位を構成する各種車両の設計が終了し、ヴォルゴグラードのバリカディ生産組合に試作車両の生産が命じられた。1987年1月より完成した試作車による実用試験がクリミア半島のフェオドシヤの海岸で開始され、いずれも高い成績を示した。1992年11月3日よりは2セット分の試作車が揃い、1993年5月30日まで制式採用に向けた本試験が行われた。 1993年1月にはウクライナが国防大臣令により試験中の車両を接収し、後に返還されたが開発計画に大きな支障が発生している。 同年にアブダビで開催された武器見本市では初めて一般に公開され、その存在が知られるものとなった。輸出のための広報活動も行われたが、採用した国はなく、1996年にはようやくロシア海軍によりА-222 «Берег»として制式化されたものの、ロシア連邦の財政難により生産・配備の計画は遅延を重ね、A-222は試作に終わったとの観測も流れた。 しかし、2003年7月にはA-222の完全編成の部隊がヴォルゴグラードの西にあるプルドヴォイ (Прудбой) で行われた国防大臣セルゲイ・イワノフ列席の演習に参加し、同年8月には黒海沿岸のノヴォロシースクに駐屯するロシア海軍第40沿岸砲兵隊に最初のA-222部隊が編成されている。
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開発・配備
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「LOSAT (ミサイル)」の記事における「開発・配備」の解説
アメリカ陸軍は当初開発に熱心であり、開発は1989年から開始されたが、1992年には予算が削減され、1996年には一時中止となった。1998年には技術研究の一環として開発が再開され、12基の発射装置およびそれを搭載する車両と、144基のミサイルの導入が決定された。 2002年には"MGM-166"の制式名称が与えられ、ミサイル108基の生産契約が結ばれた。同年10月には各種合計12両の発射装置とその搭載車両が納入され、2003年8月から2004年3月までの間によって様々な目標に対して試射が行われた。この試験期間に18発が発射された実射試験の結果は良好で、距離2,400mで時速22マイル(約35.4km)で走行する戦車に命中させた他、4,300mの距離で低速で走行する戦車に命中させ、標準的なサイズの強化された掩体壕に命中させることができた。 しかし、高度な射撃管制装置や推進/誘導装置による価格面や、ミサイル自体の大きさと重さによる制約(大型で重いために搭載できる車両が限られ、空輸性を重視して4輪駆動車に搭載した場合、発射車両には4発しか搭載できない)が問題となり、発射装置は最初の発注分の12セットのみが、ミサイル本体は2002年8月より2004年までに低率生産により108発が生産されたのみで、それ以上の発注は行われず、2004年の7月をもって計画は中止となった。 LOSATの研究成果を利用して、より小さなサイズの小型運動エネルギーミサイル(CKEM)(Compact Kinetic Energy Missile)の開発が進められていたがこちらもキャンセルされている。
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