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富士重工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/09 18:34 UTC 版)
富士重工本社(新宿・スバルビル)
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| 種類 | 株式会社 | |||
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| 市場情報 |
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| 略称 | 富士重工、富士重、FHI | |||
| 本社所在地 | 〒160-8316 東京都新宿区西新宿1丁目7番2号 |
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| 設立 | 1953年7月17日 | |||
| 業種 | 輸送用機器 | |||
| 事業内容 | 自動車・航空機の製造・整備 産業用機器の製造・整備 |
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| 代表者 | 代表取締役社長 吉永泰之 | |||
| 資本金 | 1537億95百万円 | |||
| 売上高 | 単体9521億円 連結1兆4287億円 (2010年3月期) |
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| 純資産 | 単体3545億円 連結3818億円 (2010年3月31日現在) |
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| 総資産 | 単体9265億円 連結1兆2313億円 (2010年3月31日現在) |
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| 従業員数 | 単体12,508名 連結27,737人 (2009年12月31日現在) |
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| 決算期 | 3月31日 | |||
| 主要株主 | トヨタ自動車16.48% スズキ1.75% |
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| 主要子会社 | スバル オブ アメリカ イチタン |
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| 外部リンク | http://www.fhi.co.jp/ | |||
富士重工業株式会社(ふじじゅうこうぎょう、英: Fuji Heavy Industries Ltd.、英略称FHI)は、日本の重工業メーカーのひとつ。「スバル (SUBARU)」のブランド名で自動車などを製造している。通称「富士重工」、「富士重(ふじじゅう)」とも。
目次 |
歴史
1917年(大正6年)5月、海軍機関大尉中島知久平によって群馬県新田郡尾島町(現: 群馬県太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった「中島飛行機」(1945年(昭和20年)に富士産業と改称)が、富士重工業のルーツである。
軍需から平和産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年(昭和28年)に富士重工業を設立、1955年(昭和30年)に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。
1958年(昭和33年)発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型である1961年(昭和36年)発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立し、その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。
富士重工業の誕生まで
中島飛行機
「中島飛行機」は、民間機の開発も行ったが、主として太平洋戦争までの陸海軍用機の需要に応え、軍用機およびそのエンジン開発に取り組んだメーカーである。特に1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争以降、終戦までに陸軍九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」、四式戦闘機「疾風(はやて)」[1]、海軍艦上偵察機「彩雲」[2]など多数の著名な軍用機を送り出した。エンジンメーカーとしては、「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された1000馬力級の「榮」エンジン、大戦後期の「疾風」や局地戦闘機「紫電改」に搭載された「誉」エンジンなどの航空機用発動機を開発。三菱重工業、川崎航空機と並び、航空機製造会社として日本最大規模の存在であった。
企業解体と平和産業への転進
日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに「富士産業[3]」と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ優秀な技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などを作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。
このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製の簡易なスクーター「パウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年(昭和22年)に「ラビットスクーター」として発売した。「ラビット」は運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、メーカーの屋台骨を支える重要な商品となった。「ラビット」シリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年(昭和43年)まで生産された。
また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年(昭和21年)からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年(昭和24年)にはアメリカ製リアエンジンバスに倣い、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスより更にスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流は続々とリアエンジンへ移行していく。
このようにして平和産業へ転進した富士産業であったが、1950年(昭和25年)8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。
富士重工業成立
1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約が発行すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年(昭和27年)12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。
同じ頃、1953年(昭和28年)の保安庁(現: 防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、アメリカ・「ビーチ・エアクラフト・T-34 メンター」の製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年(昭和28年)5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年(昭和28年)7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社「富士重工業株式会社」が発足[4]。
1954年(昭和29年)9月、6社が合併契約書に調印。1955年(昭和30年)4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に「富士重工業株式会社」としてスタートした(当時の資本金: 8億3050万円、従業員: 5643名)
旧・中島飛行機の発動機開発の拠点だった荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年(昭和27年)には、事実上、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの資本下[5]に入っており、再合同には参加しなかった[6]。
また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業(現: マキタ沼津)など3社も、のちに富士重工業の関連会社として加わっている。
富士重工は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年(昭和40年)に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年(昭和40年)に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである[7]。
その後の推移と業務提携
詳細は「スバル」を参照
レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショックや排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。
1968年(昭和43年)から1999年(平成11年)まではメインバンク(日本興業銀行/現: みずほコーポレート銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリー、パルサー、サニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていたが、設計の共同化や部品の共用化などが本格的に行われることはなかった。
1970年代中盤からは、南米、オーストラリアを中心としたアジア・オセアニア地方、中東、ヨーロッパなどにも進出。1970年代以前には年産10万台にはるかに満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし順調に企業規模を拡大した。
しかし、1985年(昭和60年)9月のプラザ合意以降の急激な円高とアメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。1987年(昭和62年)、いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ (SIA)を設立して現地生産も開始した[8]が、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字を抱え、深刻な経営危機が報じられるまでになった。
しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月、レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。1990年(平成2年)にはUDトラックス(旧: 日産ディーゼル)の経営再建に手腕を発揮した川合勇のもとで地道なコスト削減努力が続けられ、WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産30万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。
バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年(平成12年)に放出株全てがゼネラルモータース (GM) に売却された[9]。
しかし、GMの業績悪化に伴い2005年(平成17年)10月5日には、GMが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。GMグループのスズキと、軽自動車の部品の共通化などをすすめてきていたが、今後、トヨタ自動車およびトヨタグループ(トヨタ傘下)のダイハツ工業との開発部門の交流や部品共通化によるコスト削減効果が期待される。
2008年(平成20年)4月10日、軽自動車の自社開発・生産を行わない方針を発表。今後登場する新型の軽自動車は全てダイハツからのOEM車として供給される予定である。
2010年(平成22年)8月、現在の東京都新宿区にある本社ビル(新宿スバルビル)が老朽化したことなどに伴い、建物を小田急電鉄に売却した上で本社機能を2014年に東京都渋谷区恵比寿へ移転させることを発表した。
航空機再生産
1953年(昭和28年)9月、富士重工業は「ビーチ・エアクラフト」と「T-34 メンター」製造ライセンス契約に調印。1955年(昭和30年)10月、国産1号機を完成させ、防衛庁への納入が始まった。 さらに1957年(昭和32年)11月、戦後初の国産ジェット機「T-1 練習機(初鷹)」の開発に成功。中等練習機として1963年(昭和38年)までに66機を防衛庁(現: 防衛省)に納入した。
1965年(昭和40年)8月、民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年(昭和41年)10月から販売を開始。低翼式の機体を採用したFA-200は低速時の安定性に優れ、アクロバット飛行なども可能な万能機として好評を博し、298機を生産した。
戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発にも参加。主翼桁と尾翼を担当。この経験はのちに、1973年(昭和48年)12月、アメリカ・ボーイング社とボーイング747の生産分担契約に実を結び、1974年(昭和49年)には新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加。国際分業に大きな役割を果たした。
1974年(昭和49年)、富士重工業はアメリカ・ロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機、FA-300の共同開発を開始。1975年(昭和50年)11月に初飛行に成功、1977年(昭和52年)から販売を開始した。しかし、その後、ロックウェル社が軽飛行機部門からの撤退したため、計画が頓挫。42機の生産実績に留まった。
スバル自動車部門
「スバル (SUBARU)」
- ^ 終戦後、アメリカに接収されて、140オクタンの高品質な燃料を使用しての綿密なテストの結果、アメリカをして「第二次大戦の日本戦闘機のベストワン」と絶賛させた。
- ^ 高速偵察機として知られ、偵察後、追撃してきたグラマン・F6F・ヘルキャットを振り切り帰還、「我に追いつくグラマン無し」と打電したという逸話を持つ。
- ^ 「富士」は「富士山」に由来する。中島飛行機の創立者である中島知久平は、日本を代表する名山である富士山をこよなく愛した。
- ^ 本社は東京都新宿区角筈(現: 富士重工業本社・スバルビル所在地)である
- ^ 当時、ブリヂストン会長でもあった石橋正二郎個人が筆頭株主の会社(つまり、厳密にはブリヂストンの資本系列ではなかったが、銀行は事実上のブリヂストン支配の会社と認定していた)となっていた。
- ^ 1954年(昭和29年)、戦前の立川飛行機の転進で、同じくブリヂストン傘下にあったプリンス自動車工業と合併、富士精密工業としてスタートした後、1961年(昭和36年)、プリンス自動車工業と名称を変更、スカイライン、グロリア、皇室御料車プリンスロイヤルなどを開発。1966年(昭和41年)、日産自動車に吸収合併された。
- ^ [1]企業情報@Wiki 富士重工業
- ^ OEMによる完成車の相互供給も行なわれたが、2003年(平成15年)にいすゞのSIAからの撤退をもって関係を解消している。
- ^ GM傘下在籍中には、同傘下のSAABにインプレッサ・スポーツワゴンのOEM車種サーブ9-2Xを提供したり、GMのタイ工場からオペル車のOEMであるトラヴィックなどの供給を受けていた。また2003年(平成15年)から開発がスタートした「B9トライベッカ」ではサーブ版を最初からサーブ側と共同開発する計画だった。
- ^ WRC撤退の理由は経済不況が直接的な原因ではなく、2008年(平成20年)1月の段階で『今年、優勝できなければWRCより撤退する』と社内では発表されていた(2010年(平成22年)からWRCの車両規定が新規定に移行することも理由であると言われている)。
- ^ 1990年(平成2年)、モトーリ・モデルニが開発した水平対向12気筒エンジンをモディファイし、コローニを買収する形で参戦。1度も予備予選を通過することなく、第8戦イギリスGPを以って撤退した。
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