球場の歴史
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「エベッツ・フィールド」の記事における「球場の歴史」の解説
ブルックリン・ドジャースは、1883年に創設された球団である。1902年、チャーリー・エベッツはハリー・ファンデルホーストから球団を買収した。ハリーが球団買収にあたり出した条件は「チームをブルックリンから移転させないこと」だった。 エベッツは球団を手に入れたものの、当時の本拠地ワシントン・パークに不満をもっていた。そのため、小さい木造の球場から、鉄筋コンクリートでできた新球場に移転する計画を立てた。しかし、その計画を実行するための資金が不足していた。 エベッツはスター選手を他球団に売り払って資金を得たが、それでも貯まった金額は少なめだった。そこでエベッツは、新球場建設地を地価の安い場所にすることにした。選ばれたのは、マンハッタン橋から3マイル南に離れたゴミ捨て場だった。エベッツは1905年から、40人近い地権者一人一人と交渉を始め、1912年に新球場建設に十分な土地を取得した。 建設は1912年7月6日に開始。9ヶ月の工事を経て、1913年4月5日に開場した。右翼ポール際からバックネット裏を通って三塁側まで2層のスタンドをもち、23,000人まで収容できる新球場は、エベッツが自身の名を冠し「エベッツ・フィールド」と名付けた。同時にチーム名も「ロビンス」に変更された(1932年から「ドジャース」になる)。 イタリア産の大理石を使用した球場正面などがファンに好評で、1916年や1920年にはナ・リーグ優勝するなどチームも好調だったため、エベッツ・フィールドには多くの観客が詰めかけた。ドジャースは「ブルックリンの象徴」とも言える存在になっていった。ブルックリンを歩いていると、周りのアパートの窓からドジャースの試合を中継するラジオが流れ、試合経過が手に取るようにわかったという。 1926年には外野席が設けられ、1931年にはそれが2層になり、1938年には照明灯が設置されるなど、エベッツ・フィールドは改修を繰り返した。1946年からの10年間で、ドジャースはナ・リーグ(8球団)の全収入の44パーセントを稼いだ。 しかしその一方で、1950年からドジャースのオーナーに就任したウォルター・オマリーは、球団の移転を考え始めていた。32,000人収容の球場では(駐車場の小ささも含めて)手狭になってきたうえ、ウォール街から地下鉄で20分という立地条件に対して、夜間の治安悪化を懸念する声が出始めていた。オマリーと市は協議したが、市側の示した新しい土地と駐車場に関する提案に、オマリーは首を縦には振らなかった。 最終的にドジャースはロサンゼルスへの移転を決定した。人口や産業の伸びが期待され、飛行機の発達で移動もスムーズに行えるようになったことが決め手だった。ファンの抗議は激しかったが、決定が覆ることはなかった。1957年9月24日、エベッツ・フィールドでの最後の試合が開催されたが、観客は6,700人ほどしか集まらなかった。 1960年2月23日に取り壊されたエベッツ・フィールドの跡地には現在はアパートが建っている。そこには、かつてエベッツ・フィールドがあったことを示す記念碑が飾られている。 2009年に開場したニューヨーク・メッツの本拠地球場シティ・フィールドは、かつてのエベッツ・フィールドを規範として建設され、外観もエベッツ・フィールドを模したデザインとなっている。
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球場の歴史
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「ロサンゼルス・リグレー・フィールド」の記事における「球場の歴史」の解説
マイナーリーグのロサンゼルス・エンゼルスは1903年からワシントン・パークを本拠地にしていた。しかし駐車場の建設を巡り、オーナーのウィリアム・リグレーとロサンゼルス市の交渉が決裂。そのため、リグレーは新球場建設を決定。1924年に起工、1925年9月29日に開場した。 エンゼルスが33年間、ハリウッド・スターズが計11年間、ここを本拠地として使用したのち、ウィリアムの息子フィリップ・リグレーはエンゼルスとこの球場をブルックリン・ドジャースオーナーのウォルター・オマリーに300万ドルで売却した。 この取引によってロサンゼルスとのつながりが出来たドジャースは1958年にブルックリンからロサンゼルスに移転してくるが、新球場が完成するまでの仮本拠地にはこの球場ではなくロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを選んだ。この球場では収容人員が少ないからだった。同年から1960年までの3年間、この球場はもぬけの殻となった。 1961年、大リーグの拡張球団としてエンゼルスが創設され、同年はこの球場を本拠地にしたが、翌年にはドジャー・スタジアムに移転した。この球場は1960年代に取り壊された。 前本拠地:n/a - ロサンゼルス・エンゼルスの本拠地1961 - (1シーズン限り) 次本拠地:ドジャー・スタジアム1962 - 1965 表 話 編 歴 ロサンゼルス・エンゼルス 球団歴史 選手 監督 成績 エクスパンションドラフト 歴代本拠地ロサンゼルス・リグレー・フィールド ドジャー・スタジアム エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム 文化『エンジェルス』 永久欠番11 26 29 30 42 50 エンゼルス球団殿堂ボビー・グリッチ ジム・フレゴシ ドン・ベイラー ロッド・カルー ノーラン・ライアン ジミー・リース ブライアン・ダウニング チャック・フィンリー ジーン・オートリー ボビー・ヌープ ディーン・チャンス ティム・サーモン マイク・ウィット ギャレット・アンダーソン ブラディミール・ゲレーロ ワールドシリーズ優勝(1回)2002 リーグ優勝(1回)2002 できごと1995年のアメリカンリーグ西地区優勝決定プレイオフ 傘下マイナーチームソルトレイク・ビーズ(AAA級) ロケットシティ・トラッシュパンダズ(AA級) トリシティ・ダストデビルズ(High-A級) インランド・エンパイア・シックスティシクサーズ(Low-A級) アリゾナリーグ・エンゼルス(Rookie級) ドミニカン・サマーリーグ・エンゼルス(Rookie級) ウィキメディア・コモンズには、ロサンゼルス・リグレー・フィールドに関連するカテゴリがあります。 この項目は、メジャーリーグベースボール(MLB)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:野球 / Portal:野球)。
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「フォーブス・フィールド」の記事における「球場の歴史」の解説
1900年代初頭に人気を得たパイレーツだが、当時の本拠地エクスポジション・パークは16,000人ほどしか収容できなかったため、球場で観戦したくてもできないファンが出てくるようになった。そのため、キャパシティを大きくした新球場を建設する必要に迫られた。 1909年、パイレーツはピッツバーグ郊外の値段が安い土地を買い取り、3月1日に新球場の建設を開始した。4ヶ月の工事を経て6月30日、新球場フォーブス・フィールドが開場した。木製が主流だった当時において、鉄骨やコンクリートを用いて建設された球場は、フィラデルフィアのシャイブ・パークに次いで2例目だった。 フレンチ・インディアン戦争で活躍したジョン・フォーブスという軍人の名前から「フォーブス・フィールド」と名付けられた。 開場当時は内野のみ3層のスタンドを設置していたが、ホーナス・ワグナーなど人気選手を擁するパイレーツの人気は衰えることがなかったため、1925年に右翼に2層のスタンドが新たに設置された。1933年からはスティーラーズの移転に伴いアメフトとの兼用になった。 1939年にはニグロリーグのグレイズもここを本拠地とした。主催ゲームの多くはワシントンのグリフィス・スタジアムで行ったものの、フォーブス・フィールドでもジョシュ・ギブソンなどスター選手がファンを湧かせた。 1958年11月、ピッツバーグ大学がフォーブス・フィールドを200万ドルでパイレーツから買い取った。 1960年代に入るとフォーブス・フィールドの老朽化が進み、多目的円形スタジアムが流行し始めたため、パイレーツは新球場を建設し移転することを決めた。1970年6月28日、フォーブス・フィールドは最後の試合を終え、パイレーツは翌月からスリー・リバース・スタジアムに移転した。 1971年7月、球場は一部を残して取り壊された。現在、外野フェンスの一部が残っているほか、ピッツバーグ大学の廊下にホームプレートがその姿をとどめている。
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「リーグ・パーク (クリーブランド)」の記事における「球場の歴史」の解説
ナショナルリーグに1887年から参加していたスパイダーズの新本拠地として1891年に開場。1899年にチームは解散したが、代わって1901年からはアメリカンリーグのブルース(現ガーディアンズ)が本拠地として使用するようになった。 建造当初は木製でスタンドも1層だったが、1909年シーズン終了後にほとんどの部分を一旦取り壊し、鉄筋コンクリートで2層の新たなスタンドを建設した。これによって収容人数がそれまでの9,000人から21,000人以上に大幅に増えた。 1916年、球団オーナーの名をとって球場名がダン・フィールド(Dunn Field)に変更された。しかしオーナーが交代した1928年、球場名はリーグ・パークに戻された。 1932年から、インディアンスは2つの球場を兼用し始めた。ナイター、休日、祝日の試合はキャパシティが大きく照明設備のあるミュニシパル・スタジアムで、それ以外の試合はリーグ・パークで行うようになった。この兼用は1946年まで続いたが、とうとう1947年からインディアンスはミュニシパル・スタジアムのみを使用するようになった。 1943年からはニグロリーグのバックアイズもリーグ・パークを本拠地として使用するようになったが、1947年のジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューによってニグロリーグからスター選手が流出し、それに伴いリーグが衰退していったため、バックアイズも1950年限りで球団を解散することとなった。 使用球団がなくなったリーグ・パークは1951年に一部を残して解体された。客席の一部は風化が進み損傷も激しいが、現在も残っている。
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ポロ・グラウンズは1891年の開場とされているが、実際はそれ以前からグラウンドとして使われていた。
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「フェンウェイ・パーク」の記事における「球場の歴史」の解説
1901年のアメリカンリーグ創設時から参加していたボストン・ピルグリムスは、ハンティントン・アベニュー・グラウンズを本拠地にしていた。しかし同球場は木製だったため、火事の危険性が常につきまとっていた。1904年に球団を買収したジョン・I・タイラーは、1907年に球団名をピルグリムスからレッドソックスに変更した。続いて1910年、タイラーは新球場建設を発表した。 1911年に建設が開始され翌1912年に完成した新球場はボストン中心街のフェンウェイ地区に建設されたことから、タイラーが“フェンウェイ・パーク”と名付けた。1912年4月9日、レッドソックスがハーバード大学野球部と試合を行ったのがフェンウェイ・パーク初試合。プロ同士の初試合は当初予定されていた試合が2度も雨天延期になった後の1912年4月20日、27,000人の観客の前でレッドソックスはニューヨーク・ハイランダーズ(現ニューヨーク・ヤンキース)を延長戦の末に下した。 当時はボストンにメジャーリーグ球団がもう1つあった。ボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)である。フェンウェイ・パークの完成の数年後に建てられたブレーブスの本拠地球場ブレーブス・フィールドは、フェンウェイ・パークよりも多くの観客を収容できた。そのためレッドソックスは、1915年のワールドシリーズなどの大観衆が見込める試合はブレーブス・フィールドで行った。 1926年5月8日、フェンウェイ・パークで火災が発生した。これを機にフェンウェイ・パークは改修を行うようになった。改修はその後現在に至るまで、必要にあわせて度々行われている。 「老朽化」や「収容人員の小ささ」という欠点を解消するためレッドソックスは何度か新球場計画を発表したが、その度にファンから大きな非難を浴びて断念している。そのためレッドソックスは席の増築を繰り返して入場料収入の増加に努めている。入場料金の値上げもたびたび行われチケットの平均価格は1998年から10年連続30球団トップの高さであるが、それでもチケットは常時売り切れ状態であった。しかし、2013年4月11日のボルチモア・オリオールズ戦でチケットが完売にならず、2003年5月15日から続いていたチケットの連続完売記録は794試合で途切れた。
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「T-モバイル・パーク」の記事における「球場の歴史」の解説
マリナーズはキングドームを本拠地球場にしていたが、施設の老朽化に加え、ドーム球場の閉塞感などに対するファンの不満が高まっていたため、1990年代に入り新球場建設を決定。1995年10月14日、州議会臨時会において、新球場建設資金提供法案が可決され、地元自治体の支援を受け建設することとなった。 1997年3月8日に工事開始。当時マリナーズに所属していた人気選手ケン・グリフィー・ジュニアも出席した記念式典には3万人のファンが詰めかけ、新球場への期待の高さが見て取れる。 1998年6月4日には、地元の保険会社セーフコ(en)がネーミングライツを20年180万ドルで買い取ったことが発表され、球場名は「セーフコ・フィールド」になっていた。2018年12月19日、T-Mobile USが新たに25年間のネーミングライツを取得し、「T-モバイル・パーク」となり、現在に至る。
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球場の歴史
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「シックズ・スタジアム」の記事における「球場の歴史」の解説
この場所には1913年に建設されたダッグデール・スタジアムという野球場が建っており、マイナーリーグ・パシフィックコーストリーグのシアトル・インディアンス(のちシアトル・レイニアーズ)が本拠地にしていたが、1932年7月4日に放火され全焼してしまった。そのため、同地に新しい野球場が建設されることとなった。 1938年6月15日に開場した新球場は、レイニアーズのオーナーのエミル・シックの名前から「シックズ・スタジアム」と名付けられた。レイニアーズは1964年シーズン終了後に球団名をシアトル・エンゼルスに変えながら1968年までこの球場でプレイ。ニグロ・リーグ・ウエスト・コースト・ベースボール・アソシエイションのシアトル・スティールヘッズも1946年にここを本拠地にした。また、野球以外にも、1957年9月1日にはエルヴィス・プレスリーがコンサートを行った。 シアトルは何度か大リーグ球団の移転先に挙げられていたが、実現はしなかった。1965年のクリーブランド・インディアンス、1967年のカンザスシティ・アスレチックスが共にシアトルへの移転を検討しながらも結局しなかったのは、シアトルを代表する野球場であったシックズ・スタジアムの設備の脆弱さが理由だった。 1969年に新球団パイロッツがシアトルに創設されたが、「シーズン開始までにキャパシティが30,000人以上になるよう席を増設する」という球団誘致の条件の一つは、気候不良と費用増大が原因で工事が遅れ、実現されなかった。また座席の増設は、他の多くの座席の視界を遮ってしまった。 パイロッツは観客動員で苦戦。創設初年度にもかかわらず約678,000人(1試合平均約8,730人)しか動員できなかった。パイロッツは1年限りでシアトルに見切りをつけ、ウィスコンシン州ミルウォーキーへ移転した。 1972年から5年間はマイナーリーグA級シアトル・レイニアーズの本拠地となった。1977年にはシアトルが再び大リーグ拡張球団(マリナーズ)の本拠地として選ばれたが、本拠地球場にシックズ・スタジアムは選ばれなかった。シックズ・スタジアムは1979年2月に解体された。 前本拠地:n/a - ミルウォーキー・ブルワーズの本拠地1969 - (1シーズン限り) 次本拠地:ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム1970 - 2000 表 話 編 歴 ミルウォーキー・ブルワーズ 球団歴史 選手 監督 成績 エクスパンションドラフト 歴代本拠地シックズ・スタジアム ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム アメリカンファミリー・フィールド 文化ソーセージ・レース 『Mr.3000』 イヌのハンク 永久欠番1 4 19 34 42 44 ブルワーズ・ウォーク・オブ・フェイムハンク・アーロン ローリー・フィンガーズ ロビン・ヨーント ポール・モリター バド・セリグ セシル・クーパー ボブ・ユッカー ハリー・ドルトン ジム・ガントナー ゴーマン・トーマス ハービー・キーン ドン・マネー ウォーレン・スパーン エディ・マシューズ ジョン・クイン ルー・バーデット ジョニー・ローガン テディ・ヒゲーラ ジョー・アドコック ブルワーズ球団殿堂ハンク・アーロン ジェリー・オーガスティン サル・バンドー クリス・ボシオ ジョニー・ブリッグス ジェロミー・バーニッツ マイク・コールドウェル ビル・カストロ ジェフ・シリーロ ジム・コルボーン セシル・クーパー クレイグ・カウンセル チャック・クリム ロブ・ディアー カル・エルドレッド マイク・フェターズ ローリー・フィンガーズ ジム・ガントナー ムース・ハース ビル・ホール ダリル・ハミルトン テディ・ヒゲーラ ジョン・ジャーハ ジェフ・ジェンキンス ハービー・キーン シクスト・レスカーノ パット・リスタッチ マーク・ロレッタ デーブ・メイ ボブ・マクルーア ポール・モリター ドン・マネー チャーリー・ムーア ハイメ・ナバーロ デーブ・ニルソン ベン・オグリビー ダン・プリーサック ダレル・ポーター ケン・サンダース ジョージ・スコット ケビン・サイツァー バド・セリグ リッチー・セクソン ベン・シーツ テッド・シモンズ ジム・スレイトン B.J.サーホフ ドン・サットン ゴーマン・トーマス ビル・トラバース ボブ・ユッカー ホセ・バレンティン グレッグ・ボーン フェルナンド・ビーニャ ピート・ブコビッチ ビル・ウェグマン ボブ・ウィックマン ロビン・ヨーント ビル・シュローダー コーリー・ハート ハリー・ダルトン プリンス・フィルダー ダグ・メルビン J.J.ハーディ トレバー・ホフマン リッキー・ウィークス ヨバニ・ガヤルド カルロス・ゴメス フランシスコ・ロドリゲス ワールドシリーズ敗退(1回)1982 リーグ優勝(1回)1982 傘下マイナーチームナッシュビル・サウンズ(AAA級) ビロクシ・シャッカーズ(AA級) ウィスコンシン・ティンバーラトラーズ(High-A級) カロライナ・マドキャッツ(Low-A級) アリゾナリーグ・ブルワーズ(Rookie級) ドミニカン・サマーリーグ・ブルワーズ(Rookie級) この項目は、野球に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球/P野球)。
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球場の歴史
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「リライアント・アストロドーム」の記事における「球場の歴史」の解説
大リーグでは1962年シーズンからヒューストンに「ヒューストン・コルトフォーティーファイブス(45s)」というチームが誕生しナショナルリーグに参加していたが、当地の気温が非常に高く降水量も多いという気候の問題や、夏場の蚊の大量発生などから「より快適な環境で試合を」という考えのもと、1965年に世界初のドーム球場を建設。宇宙基地があることから球場名も「アストロドーム」と命名され、チーム名もこれに合わせて「ヒューストン・アストロズ」に変更したという経緯がある。 屋根の高さは、ベーブ・ルースが打ったとされる史上もっとも高いフライから、208フィート(約63.4メートル)になった。建設途中では当時大リーグ一のノッカーと言われたフィリーズのローバックコーチが何度もノックを打ち上げ、打球が天井にぶつからないか入念にテストした。 当初は自然光を取り入れられるように、屋根には4000枚以上の透光性パネルを使用し、天然芝が敷かれた。しかし、特にデーゲームの際に太陽光が守備をする選手の視線を遮る恐れがあるということで、急遽屋根をアクリル製に変えた。すると、今度は天然芝が枯れてしまう被害がでてしまった。そこで繊維を利用した人工芝を世界で初めて開発し、それを「アストロターフ」と命名。以後世界各地のスポーツ施設に採用されるようになった。 しかし、施設の老朽化が著しくなったことなどから、まずオイラーズが1996年シーズンを最後にテネシー州へ移転。さらに野球の原点である天然芝屋外型球場への回帰が進んでいくこと、そしてアストロズの低迷を背景に1999年のシーズンを最後として大リーグの公式戦での使用が打ち切られ、アストロズは新球場エンロン・フィールド(現ミニッツ・メイド・パーク)へ移転することになった。 現在は、IWFL(英語版)のヒューストン・エナジー(英語版)が本拠地としているほか、アメリカで有数のキリスト教伝道団体にまで成長したジョエル・オースティーン・ミニストリーズによって、毎週の礼拝に使用されている。
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球場の歴史
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「ヤンキー・スタジアム (1923年)」の記事における「球場の歴史」の解説
ヤンキースは1913年からポロ・グラウンズをニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と共用していた。しかし1920年、ベーブ・ルースがレッドソックスからヤンキースに移籍、54本塁打をマークする大活躍で一気にスター選手になり「ルース効果」でヤンキースの年間観客動員が大リーグ史上初めて100万人を突破した。これに気分を害したジャイアンツのジョン・マグロー監督は「1921年以降はポロ・グラウンズを使うな」とヤンキースに通告した。 そこでヤンキースは新球場の建設を決めた。最初はマンハッタンへの建設が検討されたがルース効果で儲かっていたヤンキースでさえ手が出せないほどマンハッタンの地価・花崗岩掘削費が高かったため、これは断念せざるを得なかった。他の地区を調査したヤンキースは1921年2月6日、ハーレム川を挟んでマンハッタンの反対側に位置するブロンクス区の材木置き場を10エーカー購入した。そこはポロ・グラウンズからは1マイルも離れていない場所だった。新球場は、僅か230日で建設され1923年4月18日、ボストン・レッドソックス戦で開場。74,217人の観衆が集まり、さらに20,000人ほどが球場に入りきれなかったという。 こういった建設の経緯から、ヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」(The house that Ruth built )との異名をもつ(開場翌日の19日に「ニューヨーク・イブニングテレグラム」のスポーツライターフレッド・リーブが呼んだとされる)。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(Death Valley)=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。また、この球場で初の本塁打を放ったのもルースで、「ここで初めてホームランを打ったのは僕だけど最後に打つのは神様しか知らない」と発言した。ちなみにヤンキー・スタジアム 最後の本塁打を打ったのはホセ・モリーナである。 ヤンキースの本拠地として、ヤンキー・スタジアムは数々の歴史的場面の舞台となった(後述)。客席が増設され一時は82,000人収容になったり1946年には照明灯が導入されるなど、改修もたびたび行われた。また野球以外にも使用され、1956年から1973年にかけてはNFLニューヨーク・ジャイアンツの本拠地として使用された。さらにプロボクシングのビッグマッチも行われた。 ちょうど開場50周年となった1973年のシーズン終了後、ヤンキー・スタジアムは老朽化のためいったん取り壊された。翌2年間新ヤンキー・スタジアム建設工事が行われ、その間ヤンキースはメッツの本拠地シェイ・スタジアムを間借りした。新球場は1976年4月15日に開場。その姿は、重厚な外観やフィールドの形状などの旧球場の特徴を残していた。「ルースが建てた家」を捩り「スタインブレナーが建て直した家」(The House Steinbrenner Rebuilt )とも呼ばれた新球場で、ヤンキースは1976年からアメリカンリーグを3連覇。1977・1978年にはワールドシリーズも制した。 1980年代に入るとヤンキースは長い低迷期に入った。当時の球場周辺の治安は悪化の一途を辿り、当時ほどではないが現在でもブロンクス区は治安の悪い地域である。 1996年にヤンキースは15年ぶりのリーグ優勝・18年ぶりの世界一と復活を果たした。1976年以降は20,000人台だった1試合平均の観客動員が、世界一の翌年の1997年からは30,000人を下回らなくなった。2003年以降は観客動員が全30球団中1位となりながらなお伸び続け、球場移転へと至っている。 2009年には新ヤンキー・スタジアムが完成し、それにともない従来のヤンキー・スタジアムは2008年のシーズンをもって閉鎖されることとなった。旧球場最終年となる2008年にはMLBオールスターゲームが7月15日に開催された。試合は旧球場との別れを惜しむかのように延長15回まで長引き、オールスターゲーム史上最長の4時間50分にわたって熱戦が繰り広げられた。最後の試合は同年9月21日に開催された。そのあと、11月23日まで球場内を公開するツアーが行われた。ただし、モニュメント・パーク(後述)の部分の公開は11月9日で終わり、11月12日から新球場への移設工事が行われた。 2009年3月から解体撤去工事が開始された。跡地にはヘリテージフィールドという10エーカーの公園が整備されている。
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球場の歴史
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アスレチックスは1901年の球団創設以来コロンビア・パークを本拠地にしていた。しかし、アスレチックスの人気にコロンビア・パークの収容人数が追いつかず、球場で試合観戦できないファンも多かった。1907年、アスレチックスオーナーの1人、ベン・シャイブが新球場建設を決定し、フィラデルフィア北部の土地を取得した。1908年に建設開始。 翌1909年に完成した新球場は、世界で初めて鉄骨と鉄筋コンクリートを用いて建設された球場だった。木製よりも頑丈な素材は、球場の大型化、すなわちキャパシティの増加を可能にした。当時としては非常に多い20,000人以上を収容可能な新球場は、オーナーの名前からシャイブ・パークと名付けられた。 新球場建設はアスレチックスの人気をさらに高めることとなった。そのため近隣の家屋が、球場内を覗き見できる屋上に座席を設け、金を取るようになった。球団オーナー兼監督のコニー・マックはこれに激怒。覗き見をやめさせるため家屋の住人に対する訴訟を起こした。しかしマックは敗訴。すると1933年の冬、右翼フェンスの高さを12フィート(約3.7メートル)から一気に33フィート(約10.1メートル)に引き上げ、眺望を遮った。狭い外野で本塁打の乱発を防ぐためではない、経済的なトラブルの解決のためのフェンスの高さの引き上げは“Spite Fence”(悪意に満ちたフェンス)と呼ばれ批判された。 1938年、ベイカー・ボウルの老朽化のため、フィリーズが移転してきた。さらに1940年にはNFLのイーグルスもシャイブ・パークを本拠地にするようになった。しかしその一方で、アスレチックスはフェンス引き上げを期に弱体化し、人気も下降していった。1953年には球場名をコニー・マック・スタジアム (Connie Mack Stadium) に改称したが、翌1954年を最後にミズーリ州カンザスシティに移転した。 その直後に球場所有権をフィリーズが200万ドルで買い取り、改装を施した。右中間にはかつてヤンキー・スタジアムで使用されていたスコアボードが設置され、バックネットは硬質アクリル樹脂でできたプレクシガラスになった。しかし球場は開場から40年以上が経過し、老朽化が進んでいった。 1964年に住民投票が行われ、フィリーズとイーグルスのために兼用の新スタジアムを建設する計画が承認された。1970年10月1日、コニー・マック・スタジアム最後の試合が行われ、翌年からフィリーズはベテランズ・スタジアムを本拠地にした。1976年にスタジアムは取り壊され、現在は教会になっている。
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球場の歴史
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フィラデルフィア北部の一画に1887年、レクリエーション・パークに代わるクエイカーズ(現フィリーズ)の新本拠地球場として開場。公式にはナショナル・リーグ・パーク(National League Park)という名称だが、フィラデルフィア・ベースボール・グラウンズ(Philadelphia Baseball Grounds)やハンティングドン・ストリート・グラウンズ(Huntingdon Street Grounds)という俗称もファンの間で定着した。ベイカー・ボウルという名称になったのは1913年にウィリアム・ベイカーがフィリーズのオーナーに就任してからのことである。 スタンドが木製だったため、1894年8月6日に火事で全焼してしまった。8月18日までに仮設スタンドを建設してその年のシーズンを乗り切ると、オフシーズンに大規模な改修工事を行い、コンクリート製で2層の新スタンドを建設し、1895年5月2日に再開場した。 しかし、1903年8月8日には外野席が崩落し死者12名、負傷者232名を出す事故が発生するなど球場の作りが脆く、またフィリーズも1915年の1回しかワールドシリーズに出られないなど不振が続いたため、観客動員は芳しいものではなかった。フィリーズは結局、1938年のシーズン半ばに、近くにあるアスレチックスの本拠地シャイブ・パークに移転することになった。
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球場の歴史
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「ブレーブス・フィールド」の記事における「球場の歴史」の解説
1900年代初頭に起きた鉄筋コンクリート製球場建設ブームの中で、ブレーブスと同じボストンに本拠地を置くレッドソックスが1912年に新球場フェンウェイ・パークへ移転。一方ブレーブスはまだ木製のサウス・エンド・グラウンズを本拠地にしていたが、ブレーブスオーナーのジェームス・ガフニーはこれを機に新球場建設を決断。1914年にコモンウェルス・アベニュー沿いの土地を確保すると、1915年3月20日に建設を開始。8月18日、開場した。当時としては史上最大の収容能力と広大なフィールドを持つ大球場だった。 ブレーブスが球団名をビーズに変更した1936年、球場名がナショナル・リーグ・パーク(National League Park)に改称された。しかしファンの間では、チーム名にちなんでザ・ビー・ハイブ(The Bee Hive=ハチの巣)という愛称が定着した。1941年からビーズが球団名をブレーブスに戻したことで、球場名もブレーブス・フィールドに戻った。 ブレーブスの人気はあまり高くなく、ブレーブス・フィールドを本拠地にし始めた1915年から1950年までの1試合平均観客動員は約5,450人だった。これはレッドソックスの同期間の1試合平均観客動員に比べて約2,190人も少ない。特に1941年から1950年にかけての数字はレッドソックスの13,170人に対し、ブレーブスは約9,300人しかなかった。 当時のブレーブスオーナーのルー・ペリーニは状況を打開すべくレッドソックスオーナーのトム・ヨーキーにある提案をする。それはブレーブスがフェンウェイ・パークに移転し、レッドソックスと“同居”することだった。しかしヨーキーは拒絶する。 1953年シーズン開幕直前の3月13日、ブレーブスはボストンから出てウィスコンシン州ミルウォーキーへ移転することを発表した。ブレーブス・フィールドはボストン大学に売却され、一部を残し解体されたのち、ニッカーソン・フィールドとして生まれ変わった。
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球場の歴史
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「エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム」の記事における「球場の歴史」の解説
1961年シーズンに新球団として誕生したロサンゼルス・エンゼルスは、最初のシーズンはロサンゼルス・リグレー・フィールドを、翌1962年から1965年まではドジャー・スタジアムを本拠地球場にしていた。しかし観客動員は伸び悩む。ドジャー・スタジアムでの4年間の観客動員は329万人ほどで、これは1試合平均では1万人を辛うじて超える程度のものだった。 そのためエンゼルスは1966年から本拠地をアナハイムに移すこととなる。それに先立ち1964年夏に新球場の建設が開始。移転初年に新球場はアナハイム・スタジアム(Anaheim Stadium)の名称でオープンした。 1980年、NFLのロサンゼルス・ラムズが移転してきたため、アメフト兼用球場に改修される。観客席は大幅に増え、収容人数は43,000人から64,593人になった。 1995年、人気低迷にあえぐラムズがセントルイスへ移転。1997年、総工費1億1800万ドルをかけ野球専用球場に再改修された。地元の電力会社、エディソン・インターナショナル社がネーミングライツを20年5000万ドルで取得したため、球場名もエディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム(Edison International Field of Anaheim)になった。しかし2003年オフに同社がオプションを行使してスポンサーを降りたため、2004年から現在の名称になった。
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球場の歴史
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「ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム」の記事における「球場の歴史」の解説
ミルウォーキーは元々野球熱が高い地域だったのだが、大リーグの球団はなかった(ボルチモア・オリオールズも創立時はミルウォーキーに本拠地を置いていたが、1901年の1年限りであった)。球団を誘致しようと、1950年10月19日、公的資金を投入してスタジアムの建設が始まった。 一方、ブレーブスはボストンに本拠地を置いていたが、レッドソックスの影に隠れて人気は今ひとつ。年間観客動員が100万人を超えたのは1947年からの3年間のみだった。そのため、球団移転を検討し始める。移転先に名乗りをあげたのがミルウォーキーだった。 1953年3月13日、シーズン開幕直前にブレーブスがミルウォーキーへの移転を発表する。4日後の17日にはナ・リーグ各球団の了承を得、移転が正式決定した。一方の球場も、建設資材の不足や建設作業員のストライキなどで完成が遅れていたが、シーズン開幕に間に合い、4月6日に開場した。 待望の大リーグ球団がやって来たということで人気は爆発。移転初年には182万人を動員しリーグ新記録を達成。翌年からは4シーズン連続で200万人超えを果たした。チームもリーグ優勝2回など躍進を遂げた。 しかし1960年代に入り不振が続くと客足も鈍り出す。1965年、球場賃貸契約が切れると同時にブレーブスはアトランタへ再移転した。 1953年からこの球場を使い始めたチームがもう一つあった。それはNFLのグリーンベイ・パッカーズである。パッカーズは1933年から、グリーンベイと同じウィスコンシン州内にもう1つ本拠地を置いていた。それがミルウォーキーだった。カウンティ・スタジアムの形状がアメフトとの兼用に向いていると考えたパッカーズは1953年からここで毎年3試合ほどを開催するようになった。 1968年、カウンティ・スタジアムで3年ぶりに野球が開催される。ホワイトソックスが年間9試合をここで行った。観客動員はその年の合計の3分の1に達した。翌年は2試合増やして11試合を行い、やはり成功。これに目をつけたのがバド・セリグ。1969年に誕生した新球団シアトル・パイロッツを買収し、ミルウォーキーに移転した。現在のミルウォーキー・ブルワーズである。 1990年代に入り、ランボー・フィールドでの観客動員が好調なパッカーズが、カウンティ・スタジアムの使用をやめ本拠地をグリーンベイ一本に絞った。その一方でブルワーズも新球場建設を決定。1996年11月9日、カウンティ・スタジアムの隣で新球場ミラー・パークの建設が開始された。2000年9月28日に閉場(当初は1999年シーズン終了後に閉場予定だったが、工事中のクレーン倒壊事故がもとで、ミラー・パークの完成が1年遅れていた)。カウンティ・スタジアムは取り壊され、現在はリトルリーグ用の小さなヘルファー・フィールド(英語版)という球場が跡地に建っている。
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