コニー・マック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/18 07:31 UTC 版)
コニー・マック(Connie MacK、本名:コーネリアス・アレクサンダー・マギリカディ・シニア(Cornelius Alexander McGillicuddy, Sr.)、1862年12月22日 - 1956年2月8日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州イーストブルックフィールド出身のプロ野球選手(捕手)、監督。ニックネームは「The Tall Tactician(ザ・トール・タクティシャン)」。
- 1 コニー・マックとは
- 2 コニー・マックの概要
- 3 詳細情報
- 4 関連項目
コニー・マック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:26 UTC 版)
「1902年のメジャーリーグベースボール」の記事における「コニー・マック」の解説
アメリカンリーグではフィラデルフィア・アスレチックスがリーグ加盟2年目で初優勝した。コニー・マック監督はこの年40歳で、1886年に当時ナショナルリーグに加盟していたワシントン・ナショナルズ (1886-1889年)に入団し、その後1890年に、プレイヤーズ・リーグのバッファロー・バイソンズ (1890年)で1年プレーして、1891年からピッツバーグ・パイレーツに在籍し1894年以降はパイレーツの選手兼任監督となり、1896年まで試合に出場し、その後は監督に専念した。身長185センチ、体重68キロでポジションは捕手であった。痩身で通算打率,244の成績で選手としての評価は低かった。そしてパイレーツを離れて、たまたまマイナーリーグのウェスタンリーグのミルウォーキー・ブルワーズ(後のセントルイス・ブラウンズから現ボルチモア・オリオールズ)の監督を務めていた時に、ウェスタンリーグ会長のバン・ジョンソンに認められ、そしてバン・ジョンソンがウェスタンリーグをアメリカンリーグに改称し、メジャーリーグに昇格した時にジョンソンはコニー・マックの人気・人格・球歴を考えて新しいリーグの目玉にしようとした。すでに指導者としての非凡さを見抜いていた。コニー・マックはジョンソンに請われるままフィラデルフィア・アスレチックスの共同オーナー兼監督に就任し、アメリカンリーグに参加した。以後1950年まで足かけ50年間、コニー・マックは必ず背広姿でアスレチックスのダグアウトから指揮を取った。 同じ頃にジョンソンは新リーグのもう一つの目玉としてジョン・マグローを考えてアメリカンリーグに招いていた。
※この「コニー・マック」の解説は、「1902年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「コニー・マック」を含む「1902年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1902年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
アメリカ合衆国の野球選手 | トム・ハー ブランドン・モス コニー・マック クライド・ライト ディック・アダムズ |
アメリカ野球殿堂 | ジョン・マグロー トム・ヨーキー コニー・マック カービー・パケット エディ・マレー |
ピッツバーグ・パイレーツの選手 | クレイグ・ウィルソン ブランドン・モス コニー・マック スティーブ・ピアース ベニー・ディステファーノ |
MLB監督 | テリー・フランコーナ ジョン・マグロー コニー・マック ルー・ブードロー フェリペ・アルー |
- コニー・マックのページへのリンク