王立協会 王立協会の概要

王立協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 04:52 UTC 版)

王立協会
The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge
標語 Nullius in verba
設立 1660年11月
本部 英国ロンドン
座標 北緯51度30分21.53秒 西経0度07分56.86秒 / 北緯51.5059806度 西経0.1324611度 / 51.5059806; -0.1324611座標: 北緯51度30分21.53秒 西経0度07分56.86秒 / 北緯51.5059806度 西経0.1324611度 / 51.5059806; -0.1324611
会員数
王族フェロー 5人
フェロー 1450人
外国人会員 140人
会長 ヴェンカトラマン・ラマクリシュナン
ウェブサイト www.royalsociety.org
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本部のカールトン・ハウス・テラス

概要

1645年頃、イングランド内戦の影響によりオックスフォード大学から研究の場をロンドンに移し、実験哲学に関する活動を始めた数学者ジョン・ウォリスら10名程度の討論グループが王立協会の起源となった[10]。正式名称は "The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge"(自然知識を促進するためのロンドン王立協会である[10])。

ロイヤルという名前は1662年にチャールズ2世の勅許を得て法人格を得たためつけられたが、国王または女王はあくまで守護者(パトロン)の位置づけで、フランスの王立パリ科学アカデミーと違って国庫の補助はなく、1850年に政府の補助金を得るまで会員の会費によって運営されていた[1]王族フェロー、名誉フェロー、外国人フェロー(日本人を含む)を含めて2016年の時点で約1600人のフェローがおり、会員は「王立協会フェロー」を名乗ることが許可される。

この会は当初から国立(王立)ではなく民間科学団体ではあるが、イギリスの事実上の学士院アカデミー)としてイギリスにおける科学者の団体の頂点にあたる。また、科学審議会(Science Council)の一翼をになうことによって、イギリスの科学の運営および行政にも大いに影響をもっている。1782年創立の王立アイルランドアカデミー(Royal Irish Academy)[11]と密接な関係があり、1783年創立のエディンバラ王立協会英語版[注 2]とは関係が薄い。

17世紀以降の著名な科学者の多くは、創立メンバーまたは会員になっている。王立協会フェローにはFRSFellow of the Royal Society)という称号が付く。最初期の主要な会員には、ロバート・ボイル、J・イーブリン、ロバート・フックウィリアム・ペティジョン・ウォリス、ジョン・ウィルキンズ、トーマス・ウィリス、クリストファー・レンなどがいる。万有引力の法則の発見や光学の研究で近代科学に多大な影響を与えたアイザック・ニュートンは、その業績が認められ後に会長になった。

歴史

草創期

ロバート・ボイルの空気ポンプ

イギリスでは1641年に清教徒革命が起こり、国王が処刑された。1645年頃、ロンドンに実験哲学好学者たちの科学サークルができていた[13]。この会は礼拝堂牧師ジョン・ウィルキンス(1614-1672)を中心として、グレシャム卿の屋敷に会合場所を持っていた[13]。そして週1回集まって何か実験を行っていた[13]

一方オックスフォードでは、オックスフォード実験哲学サークルができていた[13]。1648年にオックスフォードのウォダム学寮の学長になったウィルキンズは1648年にロンドンの仲間を呼んだりした[13]ボイルの法則で有名なロバート・ボイル(1627-1691)も1658年にオックスフォードに移ってきた[13]。1646年のボイルの手紙には「インビジブル・カレッジ」[注 3](見えざる大学、人間関係でつながった学派のようなもの)という記述があり、メンバーの私的なつながりができていた[13]

1653年にオックスフォード大学へ入ったロバート・フック(1653-1703)は、1655年に医者のトマス・ウィリアムス(1622-1675)の科学研究の助手となり、オックスフォードの科学サークルにも顔を出すようになった。フックはボイルの助手として雇われて空気ポンプなどを作ってボイルの研究を助けた[14]

これらの先行する科学サークルが統合して、王の勅許状を得て法人格を得て、より活動しやすくすることを狙って発足したのがロイヤル・ソサエティである[13]。モットーは"Nullius in verba"(ラテン語で「言葉によらず」)。これは古代ローマ詩人であるホラティウスの言葉からの引用で、原文は"Nullius addictus judicare in verba magistri"(「権威者の伝聞に基づいて(法廷で)証言しない」)。つまり、権威に頼らず証拠(実験観測)をもって事実を確定していくという近代自然科学の客観性を強調するものである[注 4]

1660年11月28日(旧暦)の会合で、「自然学的、数学的な実験学問を推進するためにカレッジを設立する」提案がなされ、実験哲学の育成を目的としたアカデミー設立計画が動き出した。1662年にチャールズ2世から1回目の勅許状(翌年改訂され差し替えられた)が与えられ、「自然知識を促進するためのロンドン王立協会」として正式に発足した。発足当初の事務局長はヘンリー・オルデンバーグ、会員数は119名であり、グレシャム・カレッジ英語版に間借りする形で活動した[10]。特許法人となった王立協会は国教会の許可を経ずに役員の判断で出版活動ができるようになり、1665年には定期刊行物『フィロソフィカル・トランザクションズ』が発刊され、ヨーロッパを代表する学術雑誌となった[10]

初期の活動

フックが協会の会合で見せた顕微鏡(『ミクログラフィア』にある版画)

第1回の会合に集まったのは12名で、毎週水曜日午後3時に会合を持つことになった。そして会員数を55名とすることになった[13]。ロイヤルを冠していても同時代のフランスの「パリ科学アカデミー」や、フィレンツェの「フィレンツェ実験学会」が国立機関であったのと違い、自発的な民間の知識の増大と普及が目的の団体であって、会員の自腹の会費で運営された[13][注 5]

会員の職業は貴族、政治家、外交官、ジェントルマン、法律家、聖職者、内科医、学者、著述家、将校、官吏、商人などであって、各分野、各身分に開かれていた。このうち科学者と言いうるのは会員の3分の1ほどであった。王立協会は民間の共同事業であるばかりでなく、非専門家が過半数を占める団体であった[16]。この時代は科学者という職業はなかったので、この時代の歴史に残る科学者たちもアマチュアの伝統のもとに活動していた[16]

協会の入会金は10シリング、会費は週1シリングとされた。これは庶民には高額であった[13][注 6]

1662年にロイヤル・ソサエティはロバート・フックを雇い実験主任(キュレイター)とした[6]。フックは1663年に会員に選出された。当時の会費は2ギニア(21シリング)と高価だったが、フックは会費を免除され[17]、毎週の会合で3、4の実験を見せ、参加者の研究を助けることを仕事にした。1664年に協会への寄付でグレシャム・カレッジの社会人向けの講座を開くことになりフックが講師となった。さらに1665年に協会の後押しでフックはグレシャム・カレッジの幾何学教授になり、カレッジを住居とした[17]。これらの仕事でフックは科学で生計を立てることができるようになった[18]

アイザック・ニュートンは協会設立時に18歳だったが、チャールズ2世に望遠鏡を献上し、それが協会に回され1672年、29歳で会員になった[19]

ロンドン大火

フックが一般に名声を得たのは1666年のロンドン大火の再建事業で、クリストファー・レンの助手としてロンドンの測量を行ったことからである。フックとレンは1666年のロンドン大火後のロンドン復興に尽力し多くの建物の設計を行った[20]

フックとニュートンの対立

パパンのダイジェスター(圧力釜)

ロバート・フックは1677年に協会の事務局長になった。会長は名ばかりでフックの地位は決定的になった[21]。1679年にはドニ・パパン(1647-1721?)が発明した火力機関を使って、動物の骨や肉などを軟らかく煮る実験を協会で見せるように助けた。7回の会合で続けられたその実験は「哲学的夕食」と呼ばれるほどたのしく、圧力釜の発明となった[21]。フックはパパンが協会の準実験主任となるように助け、パパンは協会で何度もたのしい実験を見せた[21]

フックはエドモンド・ハリー(1656-1743)と「距離の逆二乗に従う惑星同士の引力からその軌道を求める」問題を議論していた。フックにはアイディアはあったが、証明はできなかった。また、フックは1665年に出版した『ミクログラフィア』の中で白雲母の薄片に生じる虹色を議論していた。そのため、まだ若かったアイザック・ニュートンと万有引力と光学の理論で激しく対立した[21]

協会の変化

初期の、毎週の会合でみんなで実験して見せるという活動は1680年代には失われてきて、現代の協会と同じく研究の報告と討論が主となった。好学者が会員として同居していてもそれは観客にすぎなくなった[22]

学界に権威を持ち込んだニュートン

1703年にロバート・フックが死んだあと、アイザック・ニュートンが会長になった。ニュートンは死ぬまでの24年間会長にあり、175回開かれた評議会に161回出席した[23]。ニュートンは1710年に会をグレシャム・カレッジからクレイン・コートに移転することを強行した[23]。その際フックに関係したものはすべて移さなかった。このためフックの実験機器も肖像画[注 7]も行方不明となり、フックの墓もどこか分からなくなった[23]。1711年にニュートンは評議会に改革案を提示した。その内容は、

  1. 会長を除いて何びとも上座に着席してはならない。2名の書記は下座の両側にそれぞれ1名ずつ着席すること。賓客を除く他の会員は会長の判断に従うこと。
  2. 会合では会長に話しかける場合を除いて、何びとも私語をしても、協会の活動を中断させるような大声を出してはならない。

というものであった[26]。フックが実験を見せていたときには、参加者は実験に加わったり、参加者の発案で実験に工夫を加えることもあったが、ニュートンは協会の会合を儀式のように変えてしまった[26]。また、ニュートンは外国の偉い人が会長ニュートンを敬い、協会を訪問してあいさつをすると、外国人会員に選ぶこともはじめた[23]。これには多くの科学者が反対したが、ニュートンを尊敬する人が評議員に増えると、当たり前となった[23]

協会の実験科学の衰退

王立協会は設立時には実験科学を重視した学会だった。実験科学の理念はフランシス・ベーコンガリレオ・ガリレイによって提唱されたが、それが本格的に定着したのは1660年のイギリス王政復古後の王立協会であった[27]。17世紀のフックの王立協会での活躍はガリレオ以来の実験科学の研究の伝統を受け継ぐものだった[28]。しかし18世紀にニュートンが台頭すると協会では実用的な実験よりも理論的な科学の勢力が増した[29]。協会が活動拠点としたグレシャム・カレッジはもともとトーマス・グレシャム(1519-1579)が、自身の死後に屋敷に「社会人教育のためのカレッジ」として創設されたもので、大衆のための教育施設だった[30]。その講義では幾何学や天文学や実用的学問が重視された。フックが教授となったときもその伝統を受け継いでいた[31]。グレシャム・カレッジと共にフックが活躍した時期の王立協会もイギリスの数学的諸科学の本拠地として機能した。しかし、17世紀後半から王立協会のフィロソフィカル・トランザクションズに掲載される論文では天文学など数学的諸科学の論文が減少し、技術分野への関心の低下が起こった[32]。ニュートンの登場と台頭は理論的な科学への関心の高まりを反映することになり、1710年に老朽化したグレシャム・カレッジを離れて、クレーン・コートに独自の建物をもって移転し、フックの実験科学の伝統から離れていった[33]。フックの時代の会員数は150人前後で推移していたが、ニュートンが会長になった1700年頃には会員数は100人程度だった。協会はニュートン会長の下で1700年代に急速に会員を増やし1840年には700人を超えた[34]


  1. ^ Royal Societyは通常「王立学会」や「王立協会」[2]と邦訳される。はじまりはアマチュア科学者の団体として自主的に設立され、そのメンバーたちが「特権を持った法人組織としての認可を国王に請願しよう」ということになり、その結果1672年7月に国王チャールス2世から勅認状を得て命名した団体である[3]。このため、科学史家の中村邦光は「この団体は国王が設立したものでもなく、国家が設立したものでもないので「王認」と訳すべきである」と述べ[3]、同様の主張は科学史家・科学教育研究者の板倉聖宣も唱えている[4][5]。科学史家・科学教育研究者の永田英治も同様に「国から資金をもらわないのでこの本では「王認学会」とします。」[6]としているし、論文でも王認学会の訳語を用いている[7]。このほか、科学史家・科学教育研究者の松野修は論文で「王認学会」の訳語を[8]、科学史・科学教育研究者の宮地祐司は「ロイヤル・ソサエティー(王認学会)」の訳語を使用している[9]
  2. ^ エディンバラ王立協会は1783年に勅認状を得て設立され、「学びおよび有用な知識の発展」を目的とした[12]
  3. ^ インビジブル・カレッジは当時複数あり、『世界図絵』を作ったヨハン・コメニウス(1592-1670)も1654年にロンドンに亡命し「インビジブル・カレッジ」を作っている。これらのカレッジは手紙のやりとりで実現したもので、現代のインターネットによるコミュニティのようなものである[13]
  4. ^ 王立協会の実験重視の姿勢は当時の王政復古時の政治的な理由もあった。実験で分かることが重要であるとして、思弁的な理論や仮説を避けるという姿勢は、不毛な論争を避けるためとも言える。これは当時の会員に王党派と共和派の両方を含んでいたため、政治的対立を避けたかったというのも理由の一つと考えられている[15]
  5. ^ 同様に名称に Royal を付ける許可をもらい、会への干渉を防ごうとした団体には、王立園芸協会(Royal Horticultural Society)などもある(なお、王立園芸協会の設立に当たっては、当時の王立協会会長ジョゼフ・バンクスも関係している)。
  6. ^ 現代の価値では10シリングは1万円、1シリングは1000円にあたる。協会の雇った筆記者の年俸が40シリングであったので毎回の会費の1年分は年俸を上回る[16]
  7. ^ リサ・ジャーディンは『ロバート・フックの奇妙な生涯』(2003)[24]の中で、博物学者のジョン・レイ(1627-1705)の肖像だと思われてきた肖像画が、実はロバート・フックの肖像に違いないといくつもの証拠を挙げている。この肖像はロンドンの国立自然史博物館に保存されている。[25]
  8. ^ この時代に郵便制度ができ始めたこともオルデンバーグのネットワークが機能した要因になっている。15世紀までは手紙を送るにはその地方へ行く人を探さねばならなかったが、イギリスではロイヤル・ポストが作られ、エリザベス1世のころにはロイヤル・ポストが一般人の郵便物も運ぶようになった。しかし、まだ郵便事情の悪い部分もあり、オルデンバーグへの手紙がブレーメンから24日かかったとか、オックスフォードのボイルの手紙が通常2日のところを4日かかったという速さであった。[22]
  9. ^ 歴代会長の一覧」を参照のこと(英語版ウィキペディア)。
  1. ^ a b 榛葉豊 2010, p. 1.
  2. ^ 十倉 好紀 センター長が英国王立協会(The Royal Society)の外国人会員に選出”. 理化学研究所 (2023年5月12日). 2023年9月20日閲覧。英国王立協会のオープンアクセス誌“Royal Society Open Science”、論文刊行を開始”. カレントアウェアネス・ポータル. 国立国会図書館 (2014年10月14日). 2023年9月20日閲覧。竹内薫 (2022年12月27日). “王立協会科学図書賞作家が語る SF的未来と「第四次産業革命」の行方とは?”. ダイヤモンドオンライン. 2023年9月20日閲覧。、ほか多数。
  3. ^ a b 中村邦光 2008, p. 125.
  4. ^ 板倉・永田 1984, pp. 1–2.
  5. ^ 板倉聖宣 2003, p. 54.
  6. ^ a b c 永田英治 2004, p. 21.
  7. ^ 永田英治 1983, p. 151.
  8. ^ 松野修 2017, p. 15.
  9. ^ a b 宮地祐司 1999.
  10. ^ a b c d 大野 2005, pp. 106–117.
  11. ^ History of RIA.
  12. ^ RSE History.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l 榛葉豊 2010, p. 2.
  14. ^ 永田英治 2004, p. 20.
  15. ^ 榛葉豊 2010, p. 5.
  16. ^ a b c 榛葉豊 2010, p. 3.
  17. ^ a b 中島秀人 1997, p. 22.
  18. ^ 永田英治 2004, p. 22.
  19. ^ 榛葉豊 2010, p. 4.
  20. ^ 中島秀人 1997, pp. 23–24.
  21. ^ a b c d 永田英治 2004, p. 44.
  22. ^ a b c d e f 榛葉豊 2010, p. 6.
  23. ^ a b c d e 永田英治 2004, p. 48.
  24. ^ Lisa Jardine 2003.
  25. ^ 永田英治 2004, pp. 48–49.
  26. ^ a b 永田英治 2004, p. 49.
  27. ^ 中島秀人 1997, p. 259.
  28. ^ 中島秀人 1997, p. 261.
  29. ^ 中島秀人 1997, p. 262.
  30. ^ 中島秀人 1997, pp. 28–29.
  31. ^ 中島秀人 1997, p. 35.
  32. ^ 中島秀人 1997, pp. 37–38.
  33. ^ 中島秀人 1997, p. 40.
  34. ^ 中島秀人 1997, p. 39.
  35. ^ a b 中島秀人 1997, p. 257.
  36. ^ a b c d 榛葉豊 2010, p. 7.
  37. ^ a b 永田英治 2004, p. 54.
  38. ^ a b c 松野修 2017, p. 8.
  39. ^ 永田英治 2004, p. 50.
  40. ^ a b 永田英治 2004, p. 55.
  41. ^ 永田英治 2004, p. 56.
  42. ^ a b 永田英治 2004, p. 57.
  43. ^ 松野修 2017, p. 9.
  44. ^ 永田英治 2004, p. 60.
  45. ^ a b c 永田英治 2004, p. 61.
  46. ^ 永田英治 2004, p. 62.
  47. ^ 永田英治 2004, pp. 63–64.
  48. ^ a b 永田英治 2004, p. 75.
  49. ^ 永田英治 2004, pp. 75–76.
  50. ^ a b 永田英治 2004, p. 77.
  51. ^ 永田英治 2004, pp. 78–81.
  52. ^ a b c 永田英治 2004, p. 86.


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