王立保養所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 22:04 UTC 版)
オールバニ公は1420年に亡くなり、オールバニ公の公爵領だったドゥーンと摂政職は息子のマードック(英語版)(1362年 - 1425年)が引き継いだ。1424年になって、ようやく身代金がイングランドへ支払われて帰国したジェームズ1世は、その後すぐさま王国の主導権を握ろうと画策した。マードックと彼の息子2人は反逆罪を理由に投獄され、1425年5月に処刑された。ドゥーン城は任命を受けた長官や番人が管理する王家の保有物となり、スコットランド王国の保養所・狩猟用別邸(英語版)として使われた。また、メアリー・オブ・グエルダース(1434年頃 - 1463年)、マーガレット・オブ・デンマーク(1456年 - 1486年)、マーガレット・テューダー(1489年 - 1541年)の寡婦用住宅(英語版)としても用いられた。それぞれジェームズ2世、ジェームズ3世、ジェームズ4世の未亡人となった王妃である。 1528年、幼い息子ジェームズ5世の摂政となったマーガレット・テューダーは、オールバニ公の子孫であるヘンリー・ステュアート (初代メスヴェン卿)(英語版)と結婚した。彼の弟であるサー・ジェームズ・ステュアート(1513年頃 - 1554年)はドゥーン城の長官(英: Captain of Doune Castle)となり、息子で同名のジェームズ(1529年頃 - 1590年)は、1570年にドゥーン卿(英: Lord Doune)の称号を与えられている。ドゥーン卿の息子で同名のジェームズ(英語版)(1565年頃 - 1592年)は、1580年頃にエリザベス・ステュアート (第2代マリ女伯爵)と結婚し、マリ伯爵の称号を継いでいる。城は管理を行っていたマリ伯爵家のものとなり、20世紀に至るまでマリ伯爵家に所有されていた。 スコットランド女王メアリー(在位1542年 - 1567年)は数度ドゥーン城に訪れ、台所の上層にある一続きの部屋に滞在した。メアリー女王廃位後に起きた短い内乱では、彼女の忠臣たちがドゥーン城を占領したが、3日間の封鎖の後、1570年に摂政マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯)へ城が引き渡された。1570年10月4日には、ジョージ・ブキャナン(英語版)とスターリングの副判事であるダンカン・ネアン(英: Duncan Nairn)が、メアリー女王やメアリー・シートン(英語版)に手紙を届けようとしていた使者のジョン・ムーンをドゥーン城で拷問・尋問した。 ジェームズ6世もドゥーン城を度々訪れ、1581年には城の修繕や改築用に300ポンドを与えている。この事業は、"Master of Work to the Crown of Scotland"[訳語疑問点] であるロバート・ドラモンド・オブ・カーノック(英語版)監修のもとに熟練石工マイケル・エウィング(英: Michael Ewing)の手で行われた。1593年にはジェームズ6世を倒そうとする陰謀が発覚し、ジェームズはドゥーン城で共謀者らを不意打ちにして捕らえた。その中には、モントローズ伯爵(英語版)やガウリー伯爵(英語版)が含まれていた。
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