王立プリンス・アルフレッド病院と後年
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「トマス・ピーター・アンダーソン・ステュアート」の記事における「王立プリンス・アルフレッド病院と後年」の解説
その後のステュアートは、時間を見つけては公けの場で講演し、また、王立プリンス・アルフレッド病院 (Royal Prince Alfred Hospital) に積極的に関わるようになった。ステュアートが1901年に会長となったこの病院は、もっぱらステュアートの手腕によって、オーストラリア最大の総合病院に成長した。1901年には、ステュアートの尽力によりシドニー大学に歯学校が新設された。1905年には、シドニー合同歯科病院 (United Dental Hospital of Sydney) の初代院長の座に就いたが、その過程では、ヘンリー・ピーチ (Henry Peach) をリーダーとするアメリカ合衆国で教育を受けた歯科医たちからの反対を乗り越えなければならなかった。 ステュアートは、1908年にはクイーンズランド州タウンズヴィル (Townsville) の熱帯医学研究所 (the Institute of Tropical Medicine) の創設に関わり、1914年にはナイト・バチェラーに叙勲された。ステュアートは1919年はじめに病を得たが、診査手術によって腹部の癌が絶望的な状態にあることが明らかになった。ステュアートは勇気を振るって1920年1月まで仕事を続け、1920年2月29日にニューサウスウェールズ州ダブルベイ (Double Bay) の自宅で没した。 ステュアートは、生涯に2度結婚しており、最初は1882年にアインスリー嬢と結婚したが、妻はモルヒネの過剰摂取によって1886年2月28日に死去してしまい、その後、1894年にドロシー・プリムローズ嬢 (Miss Dorothy Primrose) と再婚していた。(ステュアートがナイトを叙勲した時点での妻であり、レディ (Lady) の称号を付けて言及される)後妻のレディ・ステュアートと、4人の息子たち(うち2人は後に医師となった)が後に遺された。シドニーのナショナル・ギャラリーには、サー・ジョン・ロングスタッフ (Sir John Longstaff) が描いた肖像画が収蔵されている。ジェイムズ・ホワイト (James White) による、ステュアートの大理石の胸像は、王立プリンス・アルフレッド病院とシドニー大学がそれぞれ所有している。 孫娘のプリムローズ・ポター (Primrose Potter (Lady Potter)) の名は、ステュアートの後妻の旧姓から採られている。
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