レオナルド・ダ・ヴィンチ レオナルド・ダ・ヴィンチの概要

レオナルド・ダ・ヴィンチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 02:51 UTC 版)

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レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像。1513年 - 1515年頃
生誕 Leonardo di ser Piero da Vinci
(1452-04-15) 1452年4月15日
フィレンツェ共和国 ヴィンチ
死没 1519年5月2日(1519-05-02)(67歳)
フランス王国 アンボワーズ
代表作モナ・リザ
最後の晩餐
ウィトルウィウス的人体図
運動・動向 盛期ルネサンス
レオナルドのサイン
レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像がデザインされている50000リラ紙幣。1967年 - 1974年発行。

人物

ラファエロアテナイの学堂に描かれたプラトン役のレオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルドの名前は神話に包まれている。ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といわれている[1]。史上最高の呼び声高い画家の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である[2]。アメリカ人美術史家ヘレン・ガードナー英語版は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした[1]。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている[3]


画家としても後輩筋のミケランジェロやラファエロと違って、美術の中心地のローマで活躍することはできず、17世紀から18世紀までは前述の2人の存在感と比較すると無名同然であった。現在の高い評価は19世紀に入って手稿が研究されてからである。20世紀になるとレオナルドはその個性から神話化され、ビジネスの対象となってしまい、過大評価がなされていると考える美術史家や科学史家も多い。[4]

1452年4月15日、レオナルド=ダ=ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。

1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったヴェロッキオが、運営する工房に入門した。

画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後ローマボローニャヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。

レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い[2]。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ=リザ』と[5]、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に知名度の点で比肩しうる絵画作品はほとんどないだろう。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的象徴英語版と見なされており[6]、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる[注釈 1]。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイング科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは近代以降の芸術家へ多大な影響を与えた。

レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている[2]ヘリコプター戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論[7]、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが[注釈 2]、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした[注釈 3]。また、解剖学土木工学光学流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった[8]

生涯

幼少期、1452年から1466年

ヴィンチにあるレオナルドが幼少期を過ごした家。

レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」[注釈 4]に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた[10]。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は(おそらく農夫の娘)カテリーナである[9] [11] [注釈 5]

レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる[10]。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。

現在知られている、レオナルドが描いた最初期のドローイング、ウフィツィ美術館フィレンツェ)。

レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている[13]。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった[14]。レオナルドは、西洋教育史初等学校(7歳〜15歳)には通えず、正式にではなかったがラテン語学校(7歳〜24歳)に通うヴィンチ村の青年少年達からラテン語、数学、幾何学の教育を受けたが、入学もせず、独学であった。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである[15]。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している[13]

レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている[16]。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った[17]

ヴェロッキオの工房時代、1466年 - 1476年

ヴェロッキオとレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ)。

1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りした[18]。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、ドメニコ・ギルランダイオペルジーノボッティチェッリロレンツォ・ディ・クレディらがいる[13][19]。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた[20]。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた[21]

ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている[22][注釈 6]。『キリストの洗礼』はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている[23]。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。それらの作品はフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダビデ像』と、ロンドンナショナル・ギャラリーが所蔵する『トビアスと天使英語版』に描かれている大天使ラファエルである[11]

レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった[注釈 7]。その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった[13]。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである[注釈 8][19]

円熟期、1476年 - 1513年

『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ))。未完成のこの作品には、多くの人々に囲まれた聖母子が描かれている。遠景には風景と崩壊した建物が表現され、聖母子のほうへとやってくる多くの人々が描かれている。

1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたというものがある[11][注釈 9]。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない[24]。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で新プラトン主義者の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーの一員だったという説を唱えている[11]。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝英語版』の制作依頼も受けている[25]。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。

ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり[26]、1482年に馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作したとされている。フィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチが、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの間で平和条約を結ぼうとした[27]。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である[19][28]

レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『岩窟の聖母』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画『最後の晩餐』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である[29]。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている[30]

馬の側面と、胸から上、右脚が描かれた習作。ロイヤル・コレクションウィンザー城

レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬イタリア語版」として知られるようになっていった[19][注釈 10]。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが[19]、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている[13]。この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった[19]

1499年に第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ像の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへと避難した[31]。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている[13]。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道英語版の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 - 1500年、ナショナル・ギャラリー)を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている[32] [注釈 11]

レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密なイーモラの地図。

1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した[31]。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナ(en:Valdichiana)の地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。

レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった[31]。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い英語版』の制作に取り掛かっていた[注釈 12]。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている[35][注釈 13]

1506年にレオナルドはミラノを訪れた。ベルナルディーノ・ルイーニジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ英語版マルコ・ドッジョーノ英語版ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である[13][注釈 14]。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた[37]

晩年、1513年 - 1519年

レオナルドの肖像画


1513年9月から1516年にかけて、レオナルドはヴァチカンのベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若きラファエロが活躍していた場所でもあった[37]。1515年10月にフランス王フランソワ1世がミラノ公国を占領し[25]、レオナルドはボローニャで開催された、フランソワ1世とローマ教皇レオ10世との和平会談に招かれた[13][38][39]。このときレオナルドは、歩いていって胸部からユリの花がこぼれる絡繰仕掛けのライオンの制作を依頼された[40] [注釈 15]

レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館。

レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられた[注釈 16]。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィ英語版ら、弟子や友人たちとともに過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている[37]

レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、ドミニク・アングル、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家アンゲリカ・カウフマンも同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である[注釈 17]。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている[42]。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した[注釈 18]。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した[注釈 19][43]。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。

レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの記録に記されている[44]




注釈

  1. ^ 作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた板絵だが、壁画、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。
  2. ^ レオナルドの構想に必要とされる金属工学や科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。
  3. ^ レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。
  4. ^ レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, and Reynal & Co., Leonardo da Vinci (William Morrow and Company, 1956))。この日記に記されている日付はユリウス暦によるものである。この時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分ごろということになる。当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、夜中の12時を日付の境界とする考え方では4月14日ということになる。この日付を現在のグレゴリオ暦に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である[9]
  5. ^ レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している[12]。ファルコーニは、中東に起源を持つ人々の60%に見られる渦巻状の指紋のパターンが、レオナルドの指紋にも存在すると主張している。ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。カリフォルニア大学アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。
  6. ^ ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。
  7. ^ 1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている[11]
  8. ^ このドローイングは、マドリードウフィツィ美術館が所蔵している。Drawing No. 8P.
  9. ^ ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。
  10. ^ ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。
  11. ^ 2005年になって、軍事地理学部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見されたOwen, Richard (2005年1月12日). “Found: the studio where Leonardo met Mona Lisa”. London: The Times. http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article411195.ece 2010年1月5日閲覧。 
  12. ^ 『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている[33]。レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。模写の中でおそらくもっとも精密に描かれているのはピーテル・パウル・ルーベンスの手によるものである[34]
  13. ^ 『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、ボッティチェッリら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた[36]
  14. ^ マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。
  15. ^ この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世のリヨン入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている[41]
  16. ^ クルーの館は、現在博物館として使用されている。
  17. ^ レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかるサン=ジェルマン=アン=レーから王令が出されている。このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド』(Leonardo: The First Scientist)では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。
  18. ^ レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。
  19. ^ 上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。
  20. ^ 1498年にスフォルツァ城で開催された公開討論会では、パチョーリとダ・ヴィンチは同席した。討論会のテーマは、芸術を学問と呼べるかについてであり、レオナルドは芸術が数学にもとづき科学的根拠を持つと主張した[56]
  21. ^ イギリス人美術史家マイケル・バクサンドールは、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない[73]
  22. ^ 『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家アンゲリカ・カウフマンが所有していたが、後に裁断されてしまった。後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている[74]。ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。
  23. ^ ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある[19]。『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している[84]
  24. ^ ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる[85]
  25. ^ 「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。
  26. ^ 左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。
  27. ^ 諸説あるが、この時フィエーゾレの街の壁に飛行実験成功を記念する金属製の記念額があったことを証拠にレオナルドらの飛行実験は成功したのではないかと唱える者もいる。これが事実ならば、レオナルドとマシニは人類の歴史に於いて、初の有人飛行を成し遂げた人物となる。

出典

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